キャラクター

おもしろかった。サイコスリラーというジャンルをメタ的に捉えていたり、題名「キャラクター」の意味が深く作品に関わってくるなど、ただのスプラッタ映画ではない。映画ファンをうならせる良作なのではないか。

 

 

1映画におけるサイコスリラーというジャンル
サイコスリラーとはグロ描写が含まれるジャンルのことであり、人によってはあまり好まれないジャンルである。が、このグロ描写だったり殺人鬼のサイコパス感がたまんない人にはたまらず興業として成り立つ(現に筆者もわざわざ映画館にまで足をはこんで観た)。
本屋で山城と両角が話すシーンが本作がサイコスリラーをメタ的に捉えている証拠ではないか。

 

両角「先生だって漫画の中で人を殺して楽しんでるじゃないか」
山城「ちがう!」
両角「ちがくない」

 

という問答が本屋で繰り広げられていたが、この両角のセリフはいきなり我々観客に向けられて発せられているとも考えられる。我々だってわざわざ映画館に足を運び、本作をみてフィクションとはいえ人が殺されるシーンを鑑賞している。実際に我々は人を殺してはいないが、フィクションの中で人が殺されることを受け入れている。これは4人家族を執拗に漫画の中で殺し続ける山城も同様である。
つまり、サイコスリラーというジャンルが成り立つのは、人の中に存在する「殺傷衝動」のためであり、この衝動は誰しもが持っているものである。

その点において両角が言う通り、
山城と両角そして我々も「人を殺して(殺している場面をみて)楽しんでいる」んのである。
このサイコスリラーというジャンルの本質をサイコスリラー映画である本作を通して伝えるというメタ構造になっている。

 

2キャラクターという意味
前述したとおり、山城は漫画の中で、両角はリアルで人を殺して楽しんでるという共通点がある。が異なる点もあり、それは

 

山城 漫画のキャラクターをうまくかけない
両角 自分のキャラクターがわからない

 

ということだ。
ただ初めの事件で二人が目が合った瞬間山城曰く
「僕があいつに入って、あいつが僕にはいった」
らしい。

 

これはどういうことだろうか。
あいつが僕に入ったというのは、両角からインスピレーションを受けて、リアルな殺人鬼描写が描けるようになったことだろう。
僕があいつに入ったというのは、山城が両角にキャラクターを与えたということだ。今まで自分が何者なのかわからなかった両角は、漫画34のサイコパスキラーの模倣をするようになる。山城は両角にそのサイコパスキラーのキャラクターを与えたのだ。これが「僕があいつに入って」の真相だろう。

 

ここにお互いがお互いを補い合う最強のサイコパスキラーが誕生したのだ。


山城の自宅で決戦がなされるシーン。漫画では漫画家がキラーに刺されキラーが漫画家の上に覆いかぶさる。しかし、現実では山城が両角に覆いかぶさって戦いは終わる。これはつまり山城こそが正真正銘のキラーであることのメタファーなのではないか。
そして、なにより山城が両角を刺す瞬間のあの顔。なにか自分の中にあった隠してきたものが出てきてしまったのだろう。

菅田将暉の演技下手だなあと思っていたけど、ここに来てこの演技は殺人鬼をうちに宿す青年を演出するための演技だったのかと確信した。
両角は捕まったが、山城がいう「僕があいつに入って、あいつが僕にはいった」状態はまだきっと続いている。山城は自分で作った幸せな4人家族をいつか自分の手で壊すのではないだろうか。

ソウル・ステーション パンデミック

 

本作は「新感染ファイナルエクスプレス」に繋がる物語である。ただのゾンビ映画ではなく「パラサイト―半地下の家族―」同様に、現在の韓国の問題点を浮き彫りにしており、社会風刺を含む作品である。

 

本作で描かれるのは「家がない者たちの復讐」である。
ここでいう家がない者とは、①金がなく物理的に帰る家がないという意味と、②精神的な支えとなる帰る場所がない、という二つの意味をもつ。

 

①金がなく物理的に帰る家がない者たち


これに代表されるのがホームレスたちである。

 

「福祉は国民全員に保証されるべきだよなあ」

 

そんな会話から本作は始まる。そして、この発言をした男性は怪我をしているおじいちゃんに声をかけようとするが、おじいちゃんがホームレスだと気が付くと、すぐさま仲間のところに戻り

「ホームレスだった。せっかく助けてやろうとおもったのに」

と呟く。

 

冒頭のこのシーンで監督は
『福祉は国民全員に保証されるべきと言っていたのにホームレスは助けないという男性は矛盾している。だけど現実の世界でも我々はそんな矛盾をすでになんとも感じていないじゃないか』
というメッセージを視聴者に投げかけている。

そしてこのあと、おじいちゃんを見捨てた男性=中流以上の人々は、ゾンビとなったホームレスに襲われ自分もゾンビになる。

 

②精神的な支えとなる帰る場所がない者
これに代表されるのは女主人公であるヘスンだ。このヘスンは金がなく、彼氏から売春を斡旋され、そして住む場所も今にも追い出されそうになっている可哀想な女性である。そんなヘスンもホームレスを発端とした感染に巻き込まれていく。


彼女自身交番のシーンで「私はホームレスではないです」といっていた。確かにホームレスではない。
だが、ホームレスとトンネル内に逃亡するシーンで「家に帰りたい」とホームレスとともに泣く。そして、最後彼女の父親は彼女を見捨てて逃げたことを風俗店のオーナーから告げられ、自分はホームレスではなかったが、家族という帰れる場所を自分は既に失っていたことに気づく。

 

つまり、トンネル内で二人同時に泣くシーンで象徴されるように、ホームレスとヘスンは物理的な家があるかどうかでいえば二者は異なるが、帰る場所がないという点で言えば同じなのだ。

ヘスンは最後ゾンビとなり、彼氏を殺し自分を痛めつけてきた風俗店オーナーに襲いかかる。彼女の復讐はゾンビの力を借りて完遂されたのだ。

 

本作のテーマと監督が最も訴えたいこと


本作では、冒頭の若者二人の会話から読み取るに、「国民全員に福祉が供給されなければどうなるのか」ということをテーマ(命題/監督がもっとも訴えたいこと)としている。そして上記に解説した①と②から、「貧困層に救済が行われなければ、彼らを無視し続けた者への復讐が始まる」というのが監督自身が出した答え(命題へのアンサー)である。

 

「家がない者」の意味が二重にあったのと同様にここでいう救済も二重の意味をもつ。
一つは金銭的な援助で、全国民が衛生環境が良い暮らしができるようにするということ。もう一つ誰もが家族や彼氏などの精神的支えを失わないように生きるための措置という意味である。

失業率が高い韓国で前者が保証されていないのは言わずもがなである。それに加えて後者に象徴されるように韓国では他者とのつながりが希薄になっていることを本作は描写している。これら国家単位で言えば全くもって些細なことが、国家崩壊に結びつくのでないか、という筆者のメッセージを我々はゾンビ映画として視聴させられる。ゾンビ映画で社会風刺をするというのが本作の最大の魅力である。

マレフィセント 感想

マレフィセント感想

 

 眠れる森の美女を題材としている(ちなみに白雪姫と眠れる森の美女を真実の愛によって、少女が目覚める点は共通しているが、全くの別作品である)。

 

 本作のポイントは2つある。1つは眠れる森の美女が本来語られなかったマレフィセント側から語られること。2つ目は少女オーロラがマレヒィセントからの真実の愛のキスで目覚めることである。
 
①マレヒィセント側から語られる眠れる森の美女
 眠れる森の美女は、少女オーロラの視点で描かれてきた。それを本作ではマレヒィセントの視点で描く。これはアメコミ作品で敵として登場するジョーカーを主人公とした「JOKER」と同じ手法を採用しており、同作および本作でも「敵がなぜ敵となったのか」を描く。「JOKER」の場合、家族・会社・そして社会から断絶された可哀想なアーサーが半ば必然的にダークサイドに堕ちる姿を描く。本作もマレヒィセントがダークサイドに堕ちる理由が描かれ、そしてその理由は実は人間が翼を盗んだことがきっかけであることが明かされる。
また皆が幸せに暮らすマレヒィセント含む妖精と、侵略を企て翼をも奪う国王や兵士などの人間とを対比させることで、いかに人間がクズかを鮮明に表す。
 これは「かぐや姫の物語」などでも使われる「人外と人間を対比することで人間の愚かさを明らかにする」という演出である。
よって、本作はかつてディズニーが制作した「眠れる森の美女」を全くの別視点から描いた作品であり、そのテーマ自体も従来のものとは異なってくる。

 

②真実の愛とはなにか、というディズニーが探求し続けるテーマ
 ディズニーの愛に関する捉え方、考え方は時代によって様々だ。1989年に公開された「リトルマーメイド」や1992年に公開された「アラジン」は、人間と人魚という種族を超えることや、庶民と王女という身分を超えて、互を愛することの美しさを描いた。

  ただし、そこにある大前提は「愛は男女」のもと育まれるという古くからある考え方だ。近年この「愛は男女のもと育まれる」ということに対するアンチテーゼ的な作品を多くディズニーは制作している。2013年公開の「アナと雪の女王」もその一つだ。王子と王女が結ばれるという古くからあるお約束を破るとともに、男女の恋愛ではなく同作は姉妹愛を描いた。2014年に公開された本作もこの流れをくんでおり、同作で描かれるのは母親と娘の愛(親子愛)である。
 かつてディズニーは「眠れる森の美女」を始め多くの作品で、男女愛を描いてきた。そんなディズニーがお約束を破り、かつて「眠れる森の美女」で描いた「王子によって呪いが解けた」というラストを、「母親(マレヒィセント)の愛によって呪いが解けた」という風に改変する本作に、ディズニーの覚悟が垣間見える。


 愛の形の多様化が叫ばれる現在社会。それに伴って「何も、男女だけが愛を育めるわけではないだろう」という風に認識を改めたディズニー。これまで散々男女の愛を描いたディズニーだからこそその一作品である「眠れる森の美女」を用いて、本作で愛の多様性・そしてディズニーの進化を表現したかったのであろう。

タイタニック 感想

すごく大好きな映画の一つ。ラストは切なくてとても素敵。


 本作のテーマは一つ「極限状態に陥った人はどういう死に方/行動を選択するか」ということだ。

 

死の間際になって色々な行動をする人々が描写される。以下にざっとあげる。
・子どもを助けるジャックとローズ
・子供を利用して助かろうとするローズの婚約者
・最後まで職務を全うする音楽家たち
・スピードをあげることを進言したくせにそうそうに逃げる新聞記者
・操縦室で覚悟を決めて死ぬ船長
・船が傾くシーンで宗教にすがる人たち
・紳士らしくいるといって危機事態なのにブランデーをたのむ紳士(こいつは当初拒否して他にも関わらず結局救命同位きてなかったか?)
・室内で死ぬ老夫婦と子どもをつれた家族

 

 死に直面した際に人はどういう行動を取るのか、それぞれの個性・本性が現れる。これをみて自分を省察することが一つパニック映画の醍醐味であると考える。

 

 ただタイタニックのテーマはそれだけではない。本作は「人がどう死ぬか」をテーマにしていると同時に、「どう生きるか」ということもまたテーマにしているのだ。

 

 ローズは最初船の後ろの先端から落ちて死のうとしていた。それは自分の人生が決定付けられていることへの不満からくるものであった。ここではローズは生を完全に諦めていた。
 そしてタイタニックが沈む道中、ジャックを助けにいくという勇敢なシーンがありつつも、助けたジャックに「こっちはダメだ」と通路を案内されたり、船員が鍵を落として見捨てられた際に「助けて助けて」と叫んだりしている(その間ジャックは自ら鍵を床から拾いあげて2人は助かる)。この時はジャックに頼っている面が目立つ。
 彼女の変容が見え始めるのは、船が沈み始めて乗客が船の最後部に集まるシーンだ。ローズがジャックに「ここは私たちが最初にであった場所だわ」と話しているときに、横で子どもに「もうすぐで楽になれるわ」と話している女性がいて、その女性をローズが見つめるシーンがある。
 このシーンは一度は身投げしようとした場所で、生を諦めたその女性とまだ生きたいと願うローズの対比を示している。そして最終的に、ローズは自ら笛をとり助けを呼び生きのびる。

 

最後おばあちゃんになったローズが、
「ジャックはあらゆる面で私を救ってくれた」
と回想している。

 おばあちゃんローズの写真を見るとジャックと話していた乗馬を体験できたようだし、その他にも飛行機?と一緒に写っている写真もあり、色々とチャレンジの多い自由な人生を送ったようだ。ローズおばあちゃんがいった「救う」とは命が助かったということだけでなく、生き方そのものが変わったということであろう。

 

ジャックがローズに最後にいったセリフ

「君はこんなところで死ぬべきでない。暖かいベットで死ぬんだ」

ローズはその通り死ぬのだが、彼女はかつて嘆いていたような決まった路線を歩く人生ではなく、むしろジャックのような自由を謳歌する人生となったのではないだろうか。ジャックはローズの生に活力を与えそして生き方をも変容させたのだ。
 
 パニック映画において「極限状態に陥った人はどういう死に方/行動を選択するか」ということがテーマ設定されることは珍しいことではない。しかし、タイタニックは「人の死に方」とともに「人の生き方」という正反対のテーマを包摂する映画であり、それが最大の魅力であろう。

 

追記1
これ以外にも、階級制が本作の大きなテーマである。一等と三等の価値観そして待遇はあまりにも違う。そして一等の上級階層は常に悪く描かれるのが本作の特徴だ。太った新興成金のおばさんが出てくるが、彼女は伝統的な上級民からは嫌われている。しかし、上級階層の中で彼女のみが「人」なのだ(彼女だけが、ボートを戻すことを提案したし、その際「お前らは人じゃない」といっていた。ちなみにジャックに服を貸したのも彼女だ)。生まれつきの上級階層民は三等階層の気持ちなど分かるはずもない。成り上がった彼女だからこそ分かるのだ。上級階層への批判が込められた作品でもある。

 

追記2
 ローズおばあちゃんは最後眠っただけなのか、それとも死んだのかという論争があるらしいが、筆者は最後ローズはあそこで死んだんだと思う。
なぜなら、本作では船の後先端部分が死を、前前端部が生を表すメタファーになっており、ローズおばあちゃんは船の後ろから碧洋のハートを海に落としたからだ。
(ローズが自殺しようとしたのは船の後ろ、そして二人がラブラブで生に希望を見出し有名なシーンは船の前部分で行われる。よって船の後ろ=死/前=生というメタファーが成立する)

 

かぐや姫の物語

 宮崎作品のような派手さはないが、高畑勲監督らしい丁寧に人物の心情を描く良作である。

 

 印象に残るのは無理難題を求められる貴族らとかぐや姫のやり取りである。貴族と会う前にかぐや姫は教育係におはぐろをぬることを強制され、その流れで姫は「それでは笑ったり、泣いたりできないじゃないの」といい「高貴な姫君はひとではないのね」といって部屋から飛び出す。
 その後高貴な身分である貴族たちがかぐや姫の前で嘘をついたり、怒ったり、船のうえで龍に恐れたりする。これは高貴であろうがなかろうが人は皆感情があることを表す。このシーンは、本作が人の感情をテーマとして描いていることへの伏線ともなる。
 すてまる兄ちゃんと再開した時にかぐや姫が言った「生きてる手応え」というワードも印象深い。姫が感情を最も表すことができる故郷で、幼い時を一緒に過ごしたすてまるとともに感情いっぱい野原を駆け回るシーンでこの「生きてる手応え」という言葉がかぐや姫から発せられる。本作は感情豊かに過ごせた田舎で育った子ども時代vs感情を表に出せなくなった都会で過ごす大人時代という対比構造が描かれる。大人になって、姫が唯一感情豊かになれたのはこのシーンのみで、これは「生きてる手応えに必要なのは感情である」というメッセージが込められている。
 
 そして、この感情に対しての高畑がもっとも言いたいことをかぐや姫に監督は代弁させており、これが本作の一番の見所である。つまり、姫が翁たちと別れるシーンで高畑の言いたいことが全て託されているのである。
地球での記憶を消す天の羽衣を着せようと月からの使者はこういう。「さあ、まりましょう、心ざわめくこともなく汚れも拭いされましょう」。それに対して姫はこう言う

 

「汚れてなんかいないわ。」
 
 姫は望まない貴族・天皇からの好意、そして父親からの望まない親切心で非常に困っており、心底嫌がっていたはずである。そして、この場面では翁たちとの別れを心から悲しんでいる。こういった自分を苦しめる他者からの好意・親切心そして悲しみというものが生み出される全ての元凶が人が生まれながらにしてもつ「感情」であることを姫は知っている。
 にも関わらず、かぐや姫そして高畑監督はそういった感情さえも「汚れていない」と言い切るのだ。
 

 人は生まれながらにして醜く汚い感情をもつ生き物だが、そんな人類が人外であるかぐや姫から肯定される、というお話である。

プラダを着た悪魔 感想

 ストーリーは確かに平凡。新卒の女の子がファッション業界の雑誌社で働く話。だがおもしろい。サクセスストーリーというかアン・ハサウェイ演じるアンディの成長ストーリーである。

 

 アンディは元々ファッション誌には興味がなく、ジャーナリストになりたかった。そのための過程として敏腕編集長ミランダの下で働くことになる。
 最初はファッションに興味なく、仕事も全くできなかったアンディだが、ファッションに気を使うようになってから(プラダを着るようになってから)すべてが変わり出す。ミランダの評価も上がり、今彼よりもいけてそうな彼と出会い、そしてなにより自分の仕事への意識が変わる。
 最初はファッション業界人のことを「カツカツ族」と揶揄していたが、中盤から彼氏も父親もほっぽりだして、高そうなドレスを毎日着ている彼女。完全に自分もカツカツ族になる。

 

ところで「プラダを着た悪魔」とは誰のことを指すのか。最初は鬼上司であるミランダのことだと誰もが思う。が中盤以降、悪魔が指す人物がアンディであることに視聴者は気が付く。

 

仕事が出来すぎてしまうがゆえにあれだけ「パリにいきたい」といっていた同僚のエミリーを蹴落とす形でパリに同行し、彼氏と継続中(?なのかはちょっとよくわからなかったが)にもかからわず業界イケイケ男と一夜をともにするアンディ。
「ダークサイドに落ちた」故に自分が他人(エミリーと今彼)にとって悪魔になってしまった。
そのことをミランダに指摘されたアンディはミランダとは決別することを決める。


その後向かうのは元々なりたかったジャーナリスト記事の出版社。ラストシーンでミランダとアンディはお互いの存在に気が付くのだが、両者は別々の方向へ進む。(ミランダが車に乗っているのはファション業界での実力が既にあるから早くその道を進めることのメタファー、対してアンディはまだジャーナリスト業界では駆け出しだから歩いている。別々の方向へ進むのは両者が違う業界へ進むことの暗示にもなっている。)

 

最終的には、誰かにとっての悪魔にならずに済んだアンディ。じゃあミランダは誰にとっての悪魔であったかというとそうではない。自分の子どもの双子ちゃんのために泣いたし、アンディからは最終的には庇われるほど慕われた。

『仕事をする上では必ず人は誰かにとっての悪魔にならざるを得ない。でもそれがその人間の全てではない』ということが、本作のテーマである。

 

だれもが仕事をする、生きる上では悪魔になる可能性がありえるのだ。それと同時に自分からみたら悪魔のような人でも、きっと他のだれかにとってその人は天使である、と思える作品。

花束みたいな恋をした 考察

個人的には邦画史上最高の映画。

 

結末を知っていたが、映画館に見に行った。最後二人は結ばれないことがわかっている展開がすきだから(ララランドやローマの休日)期待して行った。期待したら面白くなくなるのが定説なのにおもしろかった。完全に好み。最高。余韻がガンガンにくる。さらに考察しがいのあるディテールの作り込みがあるのも見返したくなる理由だ。

 


本作冒頭では、2020年に別れた麦と絹が同じイヤホンを共有するカップルに注意しに行こうとするところから始まる。そこで二人は「恋愛は、同じものを2つに分かち合ってはいけない。という。この「恋愛は、同じものを2つにわかちあってはいけないのだろうか」という命題・仮設が冒頭で与えられ検証するのが本編だ。


本作は本映画のテーマである「恋愛は、同じもの(LとR)を2つにわかちあってはいけないのだろうか」という仮設(結論)を最初に提示し、それを2人の過去を用いて検証している。

 

テーマに迫る前に①小道具、②対比、③じゃんけんと迫り、テーマの核心である④LとRとは何かのべ、最後に⑤絹は浮気したのか、考察する。

 

①小道具

ゲーム・漫画・舞台などが二人を結んだアイテムだったのに、社会人になりそれらアイテムの未共有が2人の別れを生んだ。これらは二人を結ぶ/破局させるアイテムだったのだ。加えて映画内でのイヤホンの表し方がうまい。イヤホンは二人を結ぶものだったのに、後半では二人を隔離するもの(一人になるためのもの)として描かれていた。こういう道具を用いて二人の心情の変化を表すという丁寧な作業が映画ファンをうならせる。

イヤホンだけでなく、靴も重要だ。白いスニーカーから黒の革靴を映すなど時の流れを否応なく視聴者に時の流れを感じさせる。

 

②対比
靴やイヤホンなどは今と昔を表す対比の一例としてあげられる。が他にも対比構造になっていると思われる構成が多い。

 

麦・絹と他人
・出会った日に出くわした押井守を知らない社会人2人
・責任を放り出したバスの運転手と麦
・死んだ先輩と麦
・名刺集めにいく歯医者事務の先輩と絹

 

昔の自分と今の自分
・責任がどうとか説教されていたのに、責任感が感じられない後輩に切れる麦
ゴールデンカムイをよんでいたのに、前田祐二の逆転の勝算を読む麦
・「そんな人はピクニックよんでも何も感じないひとだよ」と言ってた麦本人が「おれはもう何も感じないのかもしれない」とこぼす

 

麦と絹
ゼルダやる絹とやんない麦
・先輩の死について語りたい麦と、あまり感情が沸かない絹
⇒特にここの語りは見事だった。この語りによって2人が直接嫌いといってなくとももう心が離れていることがわかる。
そして麦は先輩に対して「飲むと海に行こうと言う人」絹は「飲むと必ず女のこを口説く」と男女で評価が違うのもおもしろい。(2人が最初に出会った時も絹は細かく回想してたのに、麦は「絵を褒められた」ことのみを回想しただけだった。男女の違いを細かいところで演出している)

 

対比することによって、当の本人たちが言葉であるいはもっと直接的に説明する描写がなくとも、2人が過去とは変わってしまったこと、そして、他人とはこうこう違うということを示している。実に作りこまれた小説的で映画ファンをうならせる文学映画だ。

 

付き合った時は、「このデートが終わるまでに告白しよう」だったのに、別れる時は「この結婚式の日までに別れよう」に変わってしまう。そして出会った日にもいったカラオケにこの日もいく。カメラも付き合った時はパフェをカメラで写しながらお互いの顔にカットが切り替わるのに、結婚式場ではお互いが「別れようと思う」と言うところで顔のカットが切り替わっていく。などなど出会いをなぞる(出会いと別れを対比構造にさせている)別れ方という演出に涙が止まらない。
本作は「好き」「愛している」と一言も言っていない。喧嘩シーンもあるが「嫌い」という言葉も言ってないし、当人同士が直接「別れよう」といってもいない。極めて婉曲的に、演出のみで2人の心が離れていく様子を映す。

 

③じゃんけん

前半のなんともないシーンが伏線となっていたとわかる後半も見事だ。(ブラジルサッカー代表の話や先に述べた、別れが始まりをなぞるシーンなど)。特にじゃんけんの下りがおもしろい。冒頭二人は「なぜパー(紙)がグー(石)に勝てるかわからないと述べている」。特に麦は麦登場の一番最初のシーンで「なぜ人間はこのような不条理に耐えてきたのか」とまで言っている。だけどラストで猫をどちらがもらうかのじゃんけんで麦がパーでかち「なんでパーだすの」と聞かれた麦が「大人だからー」と返す。これは、不条理を受け入れ大人になった麦と、恋愛も仕事もまだリアルを見つめきれていない絹をよく対比している。
改めて思うと猫は二人の子どもの暗示だな。離婚して親権争うとなったら、そりゃ現実をしっかり見据えている麦のほうがよいだろう

 

④LとRとは

「イヤホンのLとRのくだり」は何回も出てきる。LとRだけで聞くとそれは別の音楽だと。それをファミレスで付き合う日に、おっさんから説教受けたのに、二人はそれをわすれていくのだ。二人は同棲して同じ場所と時を共有しているはずなのにL(love)とR(real)になって心は離れていく。L(love)とR(real)の二つが1つになってやっと音楽(結婚/楽しい暮らし)ができるのに、二人は最終的にLとR別々のままだった。それは最後の場面でも伺える。

最初は就活していた絹だが、麦に対しても仕事に対してもどこか甘い理想的なものを求めている。逆に麦は最初は就活してなかったのに、絹のために現実をみてリアリストになる。この2人の時間軸との対比構造も切ないが、最後のファミレスで登場するかつて自分たちが座っていた席に座るカップルとの対比構造も切ない。あの自分たちよりも若いカップルをみて麦と絹はどう思ったのか。L(love)が諦められない絹は、自分たちにもあのような時代があったことを思い出し泣き、R(real)な世界を生きる麦は彼らに背を向けて座っていた。


いずれにせよ、2人のすれ違いはこのLOVEとREALにおいて始まる。
そう考えるとまだ2人が順調だった時に「僕の人生目標は現状維持です」といった麦のセリフは彼のリアルさを表しているし、絹はもっとロマンチックな言葉を期待していたのだろうな

 

つまり、2人が過ごした5年ほどの関係性の中で絹はlove担当で麦はreal担当になってしまった。時にはロマンチックなことしたり、時には現実を2人で考えないといけないのに、その役割を2人が個々でになってしまったのだ。
だから、恋愛するなら互いにこのL(love)とR(real)を一人ずつ持たないと続かない、ことを二人はこの5年で学んだのだ。
 そう考えると麦は映画中に寝たり、舞台一緒に行かなかったり、絹は給料さがるのに好きを遊びに変えようとしたり、、、後半以降2人でLとRを分かち合う場面はなかった。

 

⑤絹は浮気したのか?
うわきしたんだろうなと。オダギリジョーと最初に会うシーンの顔のワンカット。静岡のステーキ屋に実はいってた。そして、なにより、これほど多い対比構造を用いている本作において付き合った当初「麦くんが浮気するかもしれないしね」と電車で絹が言っていたということが対比であるとしたら、、、、、
じゃあ絹は浮気もうしてたからファミレスではもう結論は決まってたってこと?

 

2人が始めて出会った日にカラオケでうたった「クロノスタシル」の歌詞の中に「350mlの缶ビール買って君と夜の散歩」というものがある。この曲に影響されたから2人は缶ビールかって歩いている。2人がこの歌詞の話をしてコンビニでビールをかうシーンが想像できるから、缶ビールをかうシーンは存在しないのだ。
加地さんがラウンジでラーメンをさそうシーンがある。絹がラーメンブロガーであることは冒頭で述べられただけで、麦とラーメンの話をしたり食べたりするシーンが一切ない。映画を見てる限り多分麦は絹がラーメン好きなことを知らない。

 

でも加地さんは知っていた。これは映画には描かれていないけど絹と加持さんがラーメンの話を以前していて、その文脈上のラーメンの誘いなのではないか。これは缶ビールをかった場面を撮さないやり口と似ている。
麦が知らないラーメンの話を絹はした=加持と親密な関係だった=浮気した?

と考察する。

 

★監督は本作を観に来たカップルを試している★

主題歌は本作にも登場したawesome city club が歌う「勿忘」だ。

にもかかわらずエンドロールにも劇中にも一切この歌は流れない。

これは、監督が本作をみにきたカップルがyoutube上にフルで上がっている勿忘をLとR別々で聞くのかどうか試しているのだ。L(love)担当とR(real)担当に分かつことなく、1人がLとRを抱くことで成立する恋愛の真理をメタ的に説いている。