(500)日のサマー 考察

神作、こういう映画大好き。見終わったあと気持ちよくなる爽快感がある。
みたきっかけはyesmanででてきたズーイー・デシャネルがめちゃくちゃかわいったから。ありがとうデシャネル。あなたの美しさに惹かれなかったらこの映画をもう一度見ようとは思わなかっただろう。
かつて高校生の時に見たが、つまらなくて途中でやめたことをよく覚えている。
今社会人になり、結婚してみるとここまで面白く感じるのか、と驚愕している。
「卒業」も見たし、映画を解釈する能力もかなり向上しているから、面白く感じられたんだろうな。

いずれにしてもこれが2回目の視聴だが、実質一回目である。見終わったあと、考察を言語化できずもやもやしたので、youtubeで検索して、よく解説されてるのがあった。↓
https://youtu.be/KhzTIEAjpaU
https://frasco-htn.com/column/1545/
もう解説しつくされてるけれども、ここから独自の解説やちがう観点から考察したい。

 

上記サイト2つで既に解説されているとおり、本作は男視点からのみ、そして時系列がバラバラで描かれる。
そのため、サマーの心情がほぼ読み取れなくなっている。これが本作一番の特筆すべき演出で、これを理解しなければ本作の核心とテーマにたどり着けない。

 

① 男主人公(トム)がサマーにたぶらかされたという見方
 本作を真正面から見ようとするとこのような見方になるであろう(サマー視点でほぼ描かれていないため)。
 また、冒頭で「本作はフィクションで〜このクソビッチ」の作り手からの声明があるがこれによって、視聴者はサマーがクソビッチであるという見方しかできないという錯覚を起こさせる。(本作は脚本家の実体験が元になっているという、この声明はその男の本心だ)
 確かにトムは可哀想だ。イケアで手つなぎデートをして、シャワールームでセックスしたらそれは明らかに友達ではない。それでもサマーのほうは元々運命とか愛とかを信じてなくて真剣に付き合う気がなく、いつまでもトムを恋人認定してくれない。それなのに、いきなり婚約してただなんて。確かに可哀想。
 トムが置かれた状況をこのように解釈すると、ラストシーンは非常に救いのあるもので、大層爽快感がある。トムよ、夏(サマー)が過ぎ去っても必ず次の季節(autumn)はくるから、大丈夫だ。いつまでもサマーに恋焦がれてないで次に行けよ、というメッセージは、失恋から立ち直る若者に勇気を与える。

② サマーはトムを運命の相手と信じていたという見方
 トムは確かに可哀想だが、本当にそれはトムだけ可哀想なのだろうか。視聴者は一回みただけで、トムへの違和感を正しく感じ取れただろうか(恥ずかしながら私は一回目じゃ無理だった)。
 トムはとにかくヘタレで女の子の扱いがなってない。
・カラオケで最初に会った時「ともだちとして好き?」って聞かれた本当に「ともだちとしてすき」と答えるやつがあるか、このアホ。そして、サマーを送っていけ
・バーで酔っ払いに絡まれたときに、早くサマーを助けろ。「この子はおれの連れだ」ぐらい言えや
・「卒業」をみたあとに「これはただの映画だよ」なんて共感性0%の発言をするな

などなどあるが、そんな彼のどこにサマーは惹かれたのか。
それはやはり、最初の社員全員でのカラオケパーティーだろう。
ここでは
トム:愛や運命を信じる
サマー:愛とか運命は妄想に過ぎない

と両者述べており、全く正反対の意見をもつトムにサマーは興味を抱いた。
愛とか、運命とか言ってたのにこのざまである。500日かけてサマーはトムに次第に興味を失っていく。が、それにはトムにも原因があったのだ。

サマーは口では、愛とか運命は信じないと言っていたが本当は違ったようだ。むしろ、それを信じたかったからこそ、トムのカラオケ店の発言に惹かれた。

なのにサマーが「真剣に交際するつもりはない」といったらトムはイケアで
「別にいいよ気楽にいこう」
なんていってサマーに流されるし(そこは、おれが君を変えてみせるぐらいいえよ)
卒業みて、号泣してるサマーがなぜ泣いているかも理解できない。
(注:卒業のラストシーンで現実に帰るふたりをみて、現実の辛さをしってないた。のではなくて、花婿が花嫁を強奪するというラブストーリーに感動してないたんだと私はおもった)
本当はサマーはあのぐらい強引に結婚を迫って欲しかったんじゃない?

婚約指輪をはめた手で手を重ねても「君の幸せを願っているよ」しか言えないし(卒業みてんだったらその後の展開わかんだろうがよ)

などなど、サマー視点から見れば、トムにどういう風に接して欲しかったのか考察できる。

よって本作は①のように失恋者を元気づけるメッセージとともに、失恋者に自身の行動への反省を促す作りともなっている。

本作は最初ふたりがいっていた恋愛観が最後全く真逆になるという対比構造になっている。
その結果を得るまでに500日かかるわけだが、トムのほうは理解が容易い。辛い思いをしてもう愛とか運命を信じられなくなったのだろう。サマーの方も、運命の人に出会えたと思えたからそのように考えが変わったんだろうけど、トムもきっとその運命の人になり得たチャンスがあったのになあ。
サマーは、「パリで出会って云々、、、それが今の夫だ」と言ってたけど、それはそう思い込んでいるだけだ、もし最後サマーが婚約指輪をした手をトムに重ねた時に「卒業」のように、サマーを強奪したら、そしたらトムが運命の相手になれたはずだ。運命の相手は「出逢う」ものではなくて、「作る」ものなんだと、というメッセージ性も感じられる。

追記
途中登場人物たちが「愛」について語るシーンがある(トムは何も語れずに終わるけれども)。そのシーンでトムの友達がこんなことをいう。

「理想は巨乳がいい。だけど夢の理想の女の子より今の彼女が一番いい。なぜならリアルだから」

本作の中で案外一番刺さった言葉かもしれない。
相手に求める理想はきっといくつもある。たとえ相手が自分の理想条件を満たしていなくても、最も大事なことはその相手が実存し、自分と一緒にいてくれることである。理想は二の次でリアルが最も大事。
「今よりもっといい理想の相手がいるんじゃないか」と考える結婚適齢期男女に見てもらいたいシーンである。

 

初見殺しシーン
・14分頃のシーンの154日目でトムがサマーの様々な部分が好きと賞賛するシーンがある。その会話は道で友人と話しているはずなのに、いきなり室内で
「彼女といると不可能が可能になる、生きがいを感じる。」と答えるシーンが挿入されている。これは、後に愛のインタビューをうけるシーンに対応している。初見じゃまずわからない。後の愛のインタビューは答えられなかったが、この時はまだ答えられたのだ。

本作が童貞と美女のすれ違いという点(恋愛ではなくて)
・22日目トムがサニーに「週末どうだった?」と聞いたら「最高を強調していた」などと熱弁し、「週末ジムと会った男とセックスしたのだ」と勝手に妄想した。また彼女に話しかけられたいがために「the smith」を会社で流したりしていた。いたく童貞だ。悲しい童貞の所業だ。

対して、サマーは高校時代からモテモテであることは最初示されている。これは美女と童貞のすれ違いである。

そんな彼女は「恋は絵空事だ」と断言するがトムは「恋に落ちればわかる」と反論する。そして、その持ち前の童貞らしさ全開で、サマーがカラオケですきすきサインを出してるのに全く乗ってこないどころか「友達としてすき」と言ってしまう。サマーはこの点を気に入ったのだろう。いままでの男はサインをだせばいちころだったのに、トムは童貞ゆえに違った。

・トムがサマーの部屋に始めて招かれたとき、サマーはゆめの話をしたあとに「私は一人ぼっちだ」と話す。
これは友達が常にいるトムと対比を示すサインになっている。
そんで、この話にたいしての反応が「ぼくは特別なんだね」は笑った。
女の子が一人ぼっちだっていってるんだから、僕がそばにいるよぐらいいえよ

・映画に行く途中、トムは痺れをきらして「僕たちの関係はなんなのかな」と聞くとサマーは「さあね」と答える。だけどこれは友達からスタートしたことを考えれば昇格なのに、それにトムは気づけていない。

・アリソンという別の女と会うシーン、この子にまずサマーの話をする時点で恋の達人もしくは成熟した大人とは思えないが、それ以上にサマーのことを薄情で浅ましいおんなかロボットかの2択としてしか捉えていない。
自分に落ち度があった可能性を全く考慮していない。

・パーティに誘われて「幸福の建築」をプレゼントに選ぶそのセンスに笑ってしまったよトム。新幹線の中で褒められたから間に受けてしまったのかな。


本作のテーマ:愛とは?運命とは?
本作のテーマは愛とはなにか、運命とはなにか、だと思う。本作はこの神秘的かつ抽象的、哲学的なといに果敢にそしてユーモラスに応えている。

愛とは?
・サマーと共通のツールである、映画やポップスを憎むようになってしまうトム。それが爆発するのがカード会社での会議のシーンだ。

「映画やポップス、カードでさえも嘘を並べている。本当のことを語るべきなんだ」

サマーから婚約者がいると本当のことを伝えられていなくて大層ショックを受けたトムは、この世がデタラメだと確信する。
たしかにトムは本当のことを語られなかったけど、トムもサマーに自分の気持ちを真正面から伝えI LOVE YOU と伝えていたのかな。本当の気持ちを伝えられなかったのは、サマーも同じなのではないか。

トムが言うとおり、たしかにポップスも映画もフィクションだから嘘というば嘘だ。それらをともに愉しんで感じた気持ちは本物のはずだし、ましてはグリーティング会社に勤めて甘い言葉のカードをいっぱい作ってんだから、そのカードを使って気持ちを伝えることはできたんじゃないのか、トム
君がデタラメだと罵ったカードに書かれている言葉は嘘に感じるかもしれないけど、それを用いて本当の幸せを手に入れられたかもしれないのに。
そして君が童貞らしさ全開じゃなくて、もっとサマーを気遣っていればサマーは君の彼女になったよ。愛に必要なのは「本当の気持ちを伝えること」と「相手への気遣い」なのか。

運命とは?

最後にオータムと会う場面。オータムはトムとすでにあっているという。がトムはそれに気づけていない。
そのことから、そしてナレーターもいっていたとおり宇宙の力を日常レベルで理解するのは不可能なのだ。人々はそれを後付けでそして都合のよいように「運命」と呼ぶ。しかし本当にあるのはただの「偶然」だけ。
これはかつて運命を信じていたトム、そして最終的に旦那と運命的な出逢いをしたといっていたサマーへのカウンターとなる。
これが本作でもっとも言いたいテーマだろう(尺の構成的に考えても)。
運命なんてない。あるとしたら、その人の偶然のであるを運命と思えるかどうかということだけなのだ。

 

映画「卒業」とのからみ
冒頭の子ども時代のシーン、トムは「卒業」を「拡大解釈」したと字幕であらわされるが英語ではmisleadingと言われている。卒業の一番最後のシーン、現実に戻りこれからどうしようか考えるふたりの表情に気づけず、ただ純粋にハッピーな物語だとおもったのだろうか。
ふたりで卒業を見に行き、サマーは泣いてしまう。が、それは卒業のラストが現実めいたものを感じさせそれに落胆して泣いているようには見えない。むしろ、あのふたりに強い憧れを抱いているように見える。
し、だとするとサマーがトムをベンチでまっていたり、そこで手を握ってきたり、結婚式で踊ったり、パーティーに誘ったこともガテンがいく。トムに奪ってほしかったのだ。あの卒業のように。
それをしてくれないトムに泣いた、もしくは卒業のふたりに強い憧れを抱いてないたのどっちかだと思う。
のだが、じゃあトムは卒業をどのようにmisleadingしたのか。ここは現段階ではわからない。

また見よう。今度は卒業のあとに。