フリー・ガイ 考察と感想

ゲームが完全に社会に一般的に受け入れられたため映画、漫画やアニメのなかでNPC(Non Player Character)が登場することもさほど珍しくない。


思いつく限りで挙げると「ジュマンジ(案内役のガイド)」「ハンターハンター(グリードアイランド編)」「エンジェルビーツ」などにNPCキャラが登場している。これらにでてくるNPCは完全な脇役であり、作中において重要な役割を持たない。


しかし、NPCに意思をもたせ、映画の一人のキャラクターなのに、主要キャラとして扱われる映画がある。それが「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ」である。同作はしんのすけらが映画館で映画を見ていたら映画の中に入ってしまい、現実に戻れなくなるストーリーである。しんのすけらは「つばき」という少女と出会い協力しながら現実に生還する。が、つばきは実は映画のキャラクターであり、現実世界の人間でなかったことがわかるという非常に切ない展開を同作は見せる。


クレヨンしんちゃんで、映画の中で主人公が映画に入るというメタ構造を披露するのもすごいが、NPCキャラであるつばきが意思を持ち、主人公であるしんのすけの交流を描くという点が斬新であり、おもしろかった。

 

主人公がNPCである「フリー・ガイ」の構図は「カスカベボーイズ」の逆バージョンでさらに斬新だ(「カズカベボーイズ」で例えるならば、生身の人間であるしんのすけでなく、つばきが主人公になったようなものだから)。NPCが登場する作品はあっても、NPCが主人公にする設定はかなり斬新に感じられておもしろかった。


①社会変革に関するメッセージ
ガイは自分を生んだゲーム会社の社長を倒して、彼の世界を「殺人や強盗がはびこる町」から「恐竜や妖精がいる町」に変革させた。


NPCであるガイはもともと銀行に勤めており、毎日必ず同じことを繰り返す。映画の冒頭では、ガイは殺人や強盗がおこる街を楽園と称しており、充実している生活を送っていると思っていた。しかし、モロトフガールと出あい、同じ生活に違和感を感じ、最終的には自分を作った社長を倒すという「神殺し」をする。彼がNPCで最初に「今の社会の崩壊をとめてよりよいものに変えないといけない」と訴え実行した。

 

ガイ=観客/フリーシティ=私たちがいる現実世界の社会

ガイとは映画を見に来ている私たち観客のメタファーだ。私たちも、毎日同じ職場にいき同じ人とあい、代わり映えのない生活をしている。

ガイが他のNPCに向かって演説する場面でエミリーに
「君たちの世界で銃の問題はあるか」
とガイが聞くシーンがある。
そうするとエミリーが
「それは私たちの世界でも大問題よ」
と答える。

 

このシーンは、今私たちがいる現実社会にも大きな問題があることを確認するシーンである。問題を解決していかなければならないのはガイだけでなく、私たち観客も一緒であるということを訴えている。

 

つまり本作では『ガイ=観客/フリーシティ=私たちがいる現実世界の社会』として展開しており、この映画を通して監督は

「我々の社会は実はフリーシティみたいな惨状だが、君たちはその悲惨さに気づけていない。ガイのように気づいて社会を変革しよう」

という説教臭いメッセージを感じられる。

 

 

②人類はAIの成長速度に勝てないのか?という問い
ゲーム開発者であるエミリーはいっつもコーヒーを注文しその中に砂糖を2ついれる。ガイもそのように設定されていたが、途中でカプチーノを注文するという進化を見せた。


コーヒーをたのむというのが冒頭からの前フリになっていて、筆者はエミリーも最後ガイと同じように進化(成長)して、珈琲店カプチーノをたのむんだと思っていた。が、その場面はなかった。

 

これは結局は人類は変われないことを暗示しており、成長スピードではAIが遥かに勝ることを暗示している。
さらに人工知能を排除しようとしたゲーム会社の社長は社会から批判されることになることから、監督は「人工知能を受け入れなければ、社長のように非難されたり、いずれAIからの報復される」というメッセージが本作にはある。


まとめ
結局次元が違う場所で過ごす、ガイとエミリーは結ばれることがないので、映画のラストをどうまとめるのか非常に気になっていた。ラストはとても納得いく終わり方で良かった。
ガイの友達である警備員が警備ベルトを落とすカットの後、ガイとふたりで町に行くシーンで本作は終わる。

「本当の楽園が手に入れば、我々も彼らのように仕事をやめ、本当の意味で自由な生活が手に入る。だから社会を変えよう」という監督からのメッセージが最後のベルトを落とすワンカットだけで示されていて、うまいなとおもった。