シンエヴァンゲリオン 感想

面白かった。本当にこれで終わったんだなと感じ。そしてシンジ。大人になったなあ(号泣)。

 

自分では背負いきれない絶望を味わい再起不能になったシンジ。村で出会ったのはかつての大人になったクラスメイトたち。シンジはいやでもそこで精神的にも立場的にも肉体的にも自分の幼さを見せ付けられる。
それでも少しづつ、周囲の優しさに触れながら、彼は変わっていく。

 

そして、ブンダーが壊され、絶対絶命のピンチのときに自分の使命を自覚し、「僕が乗るよ」と名乗りをあげる。周囲から反対されながらも、あれほど嫌がっていたエヴァに自ら搭乗し父との最後の勝負に挑む。

 

父との勝負に自ら挑み、そしてミサトさんの犠牲に感謝し、「落とし前を付ける」と発言する彼は、「逃げちゃダメだ」と無理やり自分を奮い立たせ、一度は現実から逃げた彼ではない。(ゲンドウの「大人になったなシンジ」という言葉が象徴的だ)
内面的に圧倒的に成長したシンジ。それぞれの人物(アスカ、レイ、ゲンドウ)に落とし前をつけていく。

 

そして『真心を君に』同様、シンジくんのもと人類補完計画が発動し、シンジは神となった。そしてエヴァンゲリオンのない世界を選ぶ。それはエヴァの呪縛からときはなれたことを意味し、そこには大人になったシンジの姿がある。
今まで日本人の共通認識とも言っていいシンジ=ヘタレ、というのは本作のための振りだった。このヘタレシンジがどんな風に成長するのか、というのが最大のテーマだった。
最後、マリに「誰だ」と問われるシンジ。「巨乳のお姉さん云々」と答えるのは声替わりしたシンジで、マリとともにエヴァのない実写の世界に向かう。ここで流れる宇多田ひかるのone last kiss に号泣させられるのだ。

 

 

※真心を君にやテレビシリーズのラストが不評だったことは周知の事実。今回は監督がやりたかったことがかなりわかりやすく描かれている。レイと話すシーンで今までのエヴァシリーズのタイトルとサブタイトルが出てきるが、それはこれまでの全作品がこのシンゲキに繋がることを意味する。
カオルくんがループしていることに気づくシンジ、そしてかつて『真心を君に』でアスカに「気持ち悪い」と言われた場所で「好きだった」と告白するシンジ。この点でもシンジが過去作品より成長していることが示される。
作品をメタ的に表現して全作品通してシンジが成長していることを表現するやり方に感心した。


そして、エヴァの呪縛を被るチルドレンは成長できないという設定。エヴァに乗るシンジ達=庵野秀明であり、いつまでもエヴァの話をする視聴者我々なのである。
これでついに物語は完結。シンジは最後実写の世界に飛び出した。これはつまり監督から「俺も現実に帰るから、これ見てるお前らもエヴァの話やめて現実に戻れ」というメッセージだ。

 

 

庵野秀明はQのあとに本当に病んだらしい。それはまるまるシンゲキの最初のシンジと重なり、その病みを克服しながら庵野監督は映画を作り、シンジはエヴァに乗った。「映画はストーリーを読み解くとテーマがみえ、テーマを読み解くと監督の告白・吐露が出現する」と岡田斗司夫が紹介していたが、シンジは庵野の投影であり、シンジの成長は庵野監督の成長でもあるんだなと思った。

そして、2人が成長している間に見てる我々はどう変わったのか。エヴァの呪縛に囚われ村で子ども生活しているシンジ、もしくはいつまでもユイ(過去)に囚われるゲンドウのようにいるのか。それともケンスケ・トウジ・委員長、そしてラストシーンのように成長したシンジでいられるのか。
庵野秀明碇シンジは我々に問うている。

ジョーカー

社会派映画。バッドマンシリーズもこんなかんじなのだろうか。 

 

 アメリカ資本主義社会で生きる弱者が多く出てきる。弱者の中には、貧困な労働者や障害者などが含まれるが、アーサーは貧乏かつ、障害者かつ、虐待をうけた過去をもつ。障害者の福祉サービスが予算カットになり、障害が理由で友達もおらず、そして実は自分は養子で、母親が義父からの虐待から守ってくれなかったことを知り、国・友人・家族の三者から孤立していった。まさに社会的弱者である。  

 そんな、社会的弱者であるアーサーは作中ではどんな描き方をされてきたのか。アーサーは、完全な悪と言い切れない境遇に何回も遭遇する。例えば、電車の上級国民3人を殺すのだって、きっかけはやつらがちょっかいだしてきたからだ。 母親を殺すのだって、「ハッピーになれ」という洗脳をして、笑い出す障害の発生理由を過去に虐待に結び付けないようにしていたためだ。また、大物コメディアンを殺すのだって、最初に彼がアーサーのことをテレビで笑いものにしたからだ。

 

 アーサーを完全悪として捉えると恐らく、この映画の解釈をミスリードする。むしろアーサーはかわいそうでなやつなのだ。その証拠として例えば、経済的・障害・家族というハンデキャップや、人から受ける数々の嫌がらせ(上述したものに加えて、子供から看板うばわれリンチされたり、実父といわれる資本家から殴られたり)がある。また、快楽殺人者でないのは確かで、家にきたでかいピエロは殺し、それを見られているにも関わらず、小人は殺さなかった。分別はつくのだ。

 

 アーサーがされたことに対して殺人を犯すといのはあまりにも釣り合いが取れていない。が、それは社会をつくってきた資本家の言い分だ。アーサーは後半で「笑いってのは主観的なものだ」と語るが、正義も同様だ。なにが正しいのかは判断するのは主観に基づく。ただ、社会のルールは資本家側に一方的に作られて、マイノリティの意見は反映されない(資本家はアーサーを殴ってもオッケー、大物司会者は番組で人を馬鹿にしてオッケー、だけどアーサーはだめ)。社会的弱者の正義の言い分は社会には通用しないのだ。

 

 一方で、アーサーの殺しを賞賛するものも数多く現れる。労働者階級にとってアーサーは英雄で正義なのだろう。

 

 この映画は、『社会の善悪とは誰がきめるのか、その善悪の形成過程に批判的になれ』というメッセージが込められているのか、しれない。アーサーは映画の最後に突然笑い出し、「君には理解できない」と呟く。ここでいう「君」とは「映画に金を払って見にくることができる我々」のことを示唆しているのではないか(作中で資本家が映画館で映画を見ている。映画とは資本家の象徴)。つまり、「アーサーのような社会的弱者の正義の言い分は、映画館にきているような観客には理解できない」。そんなふうな監督からのメッセージを感じる。

天気の子

新海誠作品の「天気の子」。以下考察とネタバレ

 

近年pixerやdeisneyにおける最も主要なテーマが「役割からの開放/放棄」であることは周知のとおりだ(インクレディブルファミリーでは女性男性という役割、トイストーリー4ではおもちゃという役割、アナ雪ならエルサが女王という役割、からの開放など)。新海誠の天気の子でもテーマは「役割」である。
 本作品では様々な人がいろんな役割を有していく、もしくはそもそも有している。その一例は以下の通りである


穂高

①東京にきてホームレス生活等するが、雑誌事務所に雇われ編集者としての役割を得る。
 →ホームレス生活から抜け出し、誰かと衣食住をともにできる
②ひなにとって穂高は「私のビジネスパートナー」(弟にこのように紹介しているシーンがある)
 →自分もお金が稼げるし、ひなとも一緒にいられる
ひな:

①晴れ女ビジネスをして、「晴れ女」としての役割を得る。
 →お金が稼げるし、自分にしかできない晴れ女役を勤めること自体にも満足している
②本当は15歳であるにも関わらず18歳と偽り、穂高の前では年上のお姉さんという役割を演じ る
 →これはきっと田舎から出てきた穂高のプレッシャーを軽減させたい等の善意からくるもの
須賀さん:

実の娘からみた実の父親という役割

 

 本作は以上のような役割を物語が進行するにつれて獲得していくが、この役割の獲得はすべて肯定的に描かれる。これだけみるとpixartとは異なり役割を得ることを美/良しと捉えている。
 が、作品の最後までみれば分かるが、結局はこの役割に囚われない生き方を登場人物は行う。晴れ女は最後人柱として消えるはずなのに消えないから東京は水浸しになってしまう。晴れ女失格である。

 穂高も晴れにするのが仕事だったのにひなさんにこの世に呼び戻してしまったために、ずっと雨が降る。晴れ女ビジネス考案者失格である。(須賀さんも娘と一緒になれるかも知れないから警察ごとは避けたいというって穂高を田舎に帰るよう促すくせに、結局警察をぶん殴りにいって逮捕される→父親失格。)


本作の主題はまさにここにある。役割の放棄によって世界が狂おうとも「大丈夫」であり世界がどうこうなるなんてことよりも、「君のことがすきなんだ」「君ともっといたいんだ」なんていう非常に純粋な愛の話、それが天気の子である。ちなみに天気の子は直訳すればchild of weather とはひなが女の子であることを考えればgirl of weather とかになるはず。ただ公式タイトルはweathering with youであり、このタイトルが今述べた天気の子の主題のメタファーになっている。


 ただ新海誠はひねくれもので、この愛の話をそのまま美しいものとしてのみ捉えて本作を作っていないのではないか(完全な私の偏見)。映画の美味しいところ(主題の愛の話)に少し自身で批判を加えている。
子供と大人の対比が本作では随所に見られる(須賀さんの「大人になれよ、少年」なんてまさにこれそのもの)。ラブホで「俺が働くから」とか16歳の少年が言ってしまう滑稽さ、2400円?しかしない指輪をベットで渡す可愛らしさ(みる人によってはこれはおままごとである)は以下にも子供っぽさを連想する。そんな子供が誰か好きになって「消えないでほしい、ずっとそばにいて欲しい」と思う話に、大人が映画館にきて感動する。そんな状況をみた新海誠は「何子供のおままごとみたいな恋愛みて感動してんねんwww」みたいなこと考えて作ってるかもしれない。

 

追記
 登場人物がいちいちエロい。深海誠の性癖爆発である。平成たぬき合戦ぽんぽこでも至る所に隠れて性的な描写が仕組まれていた。天気の子も同じである、むしろ天気の子のほうがぽんぽこより直接的に女性がエロい。ラブホに3人で泊まるシーン、とくにひなの風呂上りシーンを、穂高の目線および穂高の表情から、映画をみる観客に「青少年老若男女みるこの映画でなにか起きてしまうのではないか」と想像させる圧巻のでき。個人的には恋歌ってるところが一番好き。
 映画冒頭で出てくる野沢雅子演じる占い婆がいっていることがこの映画の答えである。Lalaland やうる星やつらビューティフルドリーマと同じように最初に映画の答えをいう仕掛けを採用している。
占い婆はこんなこともいっている「晴れ女はリーダーに向かない」。にもかかわらずひなは年齢まで偽って穂高らの前でリーダーになろうとする。晴れ女には向かないはずのリーダー役を努めていたから、最後晴れ女の役割から開放されて人間界にもどってこれたのかもしれない。

ミューツーの逆襲 EVOLUTION

記念すべき映画考察として初のブログ投稿では「ミューツーの逆襲 EVOLUTION」を考察していく。2019年8月時点でまだ公開中であり、私は劇場で鑑賞した。

あらすじは述べずここでは、考察と感想のみをしるす。ネタバレあり。

 

 初見の感想ではこれはポケモンをベースにした「ジュラシックパーク・ワールド」であると感じた。 冒頭でミューは天候等を操ると説明される。つまりそれはミューは自然の象徴であることを暗示している。そこから人間の手によって生み出されたミューツーは人間や人間に 飼われている、言い換えれば人工的なものに逆襲を仕掛けていく。これは人間が恐竜を蘇らせ、 恐竜に逆襲されるという「ジュラシックシリーズ」と構図と似ている。ジュラシックシリーズの主題は自然には人間は勝てないということ であり、DNA技術を暗に批判し、生命さえも作れるようになった人間の愚かさを描く。 本作も同じである。 ミュウの遺伝子から作られたポケモンミュウツーに人間は勝てない ( 実際オリジナルの御三家ポケモンミュウツーが作ったクローン御三家に負けている)。

 

が、ジュラシックシリーズとは結末が違う。 ジュラシックパーク1では恐竜に勝てない人間が完全にパークから 逃げる。 ジュラシックワールド1では遺伝子操作された恐竜(インドミナレックス)がオリジナルで あるティラノとモササウルスにやられるし、 人間もあの島から退却する。 ジュラシックシリーズは人間が自然に勝てないことと、 遺伝子操作されたものがオリジナルに負けるという構造になるが、 ミュウツーでは「クローンでも生きてるから」 といって人間側もミュウツー側も最終的には和解してお別れすると いう話である。

 

 一方これだけでは、ミュウツーが様々な場面で自問してきた「 私はだれか?」という答えになっておらず、 考察としては不十分な点があることは否めない。

 

 年上の友人曰く、ポケモンがブームになった直後「 ポケモンモンスターボールにいれて、かつそれを戦わせる」 ということが評論家から論評をよんだらしい。つまり、 ポケモンは人間の奴隷として扱われているのではないかという、 ポケモンとの友情ばかり焦点をあてた作品に見慣れ続けた私にとっ ては考えられない考察が当時はあった。

 

 そういった考察へのアンサーとして回答したのがポケモン1作目の 映画である「旧版ミュウツーの逆襲」である。ミューツーがとう「 私はなにか?」という質問は「ポケモンとは何か?」 を問うている(下記の補足参照)。ミュウツー登場のシーンで「人間がいたらこの星が 破壊されてしまう、ポケモンが人間に従わされている」 等々評論家が言ってきたポケモンへの批判をミューツーにいわせ、 そして物語全体(特にポケモンが涙して、 化石サトシを救うシーン)でそれを否定している。 ポケモン一作目の映画である本作ではポケモンとは何かを問う。 そんな映画になっている。

 

補足

 ミューのクローンであるミューツーが自身の存在をとうことが、 ポケモンをとうことになると上記したが、 その点について補足する。

 そもそもポケモンは現実に実在する動物や植物からその姿形と名前 がモチーフとなっている(例:火のトカゲ=ヒトカゲ)。 そう考えると、 そもそもポケモン自体が現実世界の動物のクローンでありオリジナ ルではない存在なのである。 よってミューというオリジナルから生まれた「ミューツー」と、 現実世界にある動植物のオリジナルから生まれた「ポケモン」 はリンクする存在である。よってミュツーの「私はだれだ」 という問は「ポケモンとは何か」 をとうことと同義になるのである。

 

子供むけだと思われるポケモン映画「ミューツーの逆襲」。ぜひ童心を思い出して鑑賞されてはいかがだろうか