そして、バトンは渡された 感想

永野芽郁石原さとみ目当てで見に行った。
結論、面白くなかった。なぜ、作品に没頭できなかったのか分析してみた。

 

①登場人物=映画の装置?
例えば、永野芽郁演じる優子に最初意地悪していた高校の同級生2人は、なぜ意地悪していたのか、そして、なぜ急に優しくなったのか。一般的に考えればながの優子が頑張ってピアノ練習していたから優しくなったということなんだろが、例えば「優子ががんっばってピアノを練習する様子をこっそりみた」とか「家庭が複雑なことをたまたましった」とかの描写がなく、いきなり優しくなる。そして結婚式にも呼ばれる。
これは意地悪する2人組が最初は意地悪するけど、そのご結婚式にも呼ばれるようになるという友人を作り手が優子の近くにおきたかっただけに過ぎない。そこでは人物に感情の変化が丁寧に描かれることなく、物語の進行上作り手の都合がいいだけの存在(=ここではこういった存在を「装置」と名付ける)が誕生する。
他にも、二人目のお父さんである泉ヶ原さんがなぜ離婚した梨花の面倒を死ぬまでみていたのか(普通、離婚してそこまで面倒見る必要もないし、離婚しているのだからあんなに仲いいのは不自然ではないか)、早瀬くんと久しぶりに再開するのに結婚するのは不自然ではないか、など物語のストーリーそして尺的に装置として機能する人物が多くいたのではないか。


そもそも梨花が自分で子供を作れない身体とはいえ、優子のために何人も父親を変えるということ自体も不自然ではないか。

物語とはフィクションであるから作り手が、ストーリーの展開を踏まえて登場人物を配置する。そしてどんなに現実離れした話(例えば中学生が急にエヴァに乗せられたり、巨大怪獣が東京に現れたり)でも、フィクションだから視聴者は違和感なく受け入れる。
しかし、物語が進行する上で、脇役も含め登場人物の感情が現実的な思考回路をしている、つまり登場人物が物語の装置でないことは極めて重要だと感じた。

 

②人物が物語の核心を明言してしまう不満
森宮さんが冒頭で「クラス対抗リレーでバトンをわたせなくて、その頃の悔しさが未だある」みたいなことを言っていた。そんな男が優子を立派に嫁にだして、夫となる早瀬に優子というバトンを繋げた、というのが本作の感動ポイントである。
これを森宮さんが直接早瀬君に結婚式場に言ってしまうのはあまりにもナンセンスだと思った。説明を全部するなら、それは映画ではない。映画とは視聴者に解釈を委ねる場面も必要で、その解釈のやり取りが映画の醍醐味であると筆者は思っている。本作における「バトンとはなにか」を考えさせず答えを人物が言ってしまうのはこの映画を見に来ている人の知能を低く見積もりすぎなのではないか。

 

総評
優子は家庭環境は複雑であったが、とくにそれで悩んだりしている様子はあまり見られなかった(この点は実の親子でも対立を繰り返す早瀬君と対比になっている)。この映画のどこかで「子どもには幸せになって欲しい」と誰かが言っていた気がする(記憶が曖昧ですみません)。
本作は子どもが必ず幸せになるとても救いのある話となっており、作者は子どもが幸せに生きる世界を映画の中だけでも作りたかったんだなと感じた。
映画だからこそ善人しかいない世界も作り出せるわけで、そういう世界を作り出せるのも映画の魅力の一つであると感じた。