見るの遅すぎて大後悔【トップガン マーベリック 感想】

数々の映画好き、そして映画コメンテーターが絶賛していた本作をやっと見に行った。なぜやっと見に行ったかというと正直1986年公開の「トップガン」が非常に微妙だったからだ(同作でトムクルーズは一躍有名になる)。
前作がなぜ微妙だっのかというとそれはまず、映像のクオリティに問題があるのだろう。ジュラシックワールドでは「恐竜もいまや観客にとって動物園の動物と変わらない」というセリフがある。これはジュラシックパーク作品を見ても現代のCGに完全になれた我々にとってはそこまで目新しいものではないことを意味するメタ発言だ。これと同様に今更1986年の映画でアクションを見せられても令和を生きる者にとって飛行アクションシーンはそこまで迫力があるものでなかった。
次に、見通しが持ちすらくストーリーの平凡さ及び感情移入のしずらさという問題があった。フラグこそあるものの友人が死ぬのは突然で、そして卒業式の日にいきなり決戦となり視聴者としてはどこで盛り上がるのかわかりずらい。そして、マーベリックが抱える葛藤は、友人が死んだことによる憔悴感であり、ドラマとしてはそれをどう乗り越えるのかが見どころである。にも関わらず飛行シーンの戦闘に多くを割かれあまり人間の感情がうまく引き出せていない気がしていた。

対して本作はこれらの懸念事項を見事に裏切ってくれた。


Ⅰ見通しの大切さ
これまで映画を見てきた中でも火垂るの墓のように最後のシーンを冒頭にもってきてる映画は数多くある。冒頭の盛り上がるシーンまでは回想で作成し、クライマックスだけ時系列で映す作品もある(これの代表例としてスラムドッグミリオネアがあるが同作の冒頭では「大金を手に入れたのはなぜか」と聞いており、最後の結果を一番最初にだすという意味では火垂るの墓と重なる)。
いままで見てきたほとんどの作品がこのどちらかを使っているのではないかと思うほどこれらの手法を取る映画はおおい。多く今思いつくだけでも、タイタニック、花恋、インセプション、500日のサマー、浅草キッドなどあげればきりがない。
一見、ネタバレにも見えるこの手法をなぜ多くの作品は用いるのか。
ひとつは、作品を通しての見通しを持たせることでどこが一番盛り上がるのかを伝えるという役割がある。最大のクライマックスはどこかを提示してくれたほうが視聴者もみてて気持ちが良いし、感情が乗りやすい。これからどうなるのかというストーリーに関する道筋を立てたほうが観客の集中は持続しされるのだ
(小学校の授業でもこの見通し重要論がよく唱えられる。これから何が起きるのかあらかじめわかることは人の集中力は持続する。二時間以上ある映画においてみさせて飽きさせない演出とは非常に大切だ)。本作は火垂るの墓やスラムドッグミリオネアのように回想や時系列を入れ替えるシーンは一切ない。しかし、前作と違って、作戦決行日は何時でそのために準備期間がどれくらいあって、今何をしなければいけないということが明確に示されるとともに、作戦準備期間と作戦実行期間が映画の前半と後半で分かれている。当たり前のように思うが、この作戦実行日が明確になっていることが視聴者にとっての見通しとなれた(前作のトップガンでは卒業式の日にいきなり決戦だったのでこの見通しの良さが際立って感じられた)。

 

Ⅱ視聴者が求めるのは結果<過程(ドラマ)
タイタニックでは、タイタニックが沈んだ日のことをおばあちゃんになったローズが回想していく。そもそもタイタニックが沈むことは歴史的事実であり、ネタバレでさえない。それでもジェームス・キャメロン監督はタイタニックが沈む映画をみるし、我々もいまだにタイタニックを見る。ここから導きだされることは観客も監督も物語のエンディングがどうなるのかというのは興味がないということだ。視聴者はそこに生まれるドラマを目当てに見に来ている。
ここが初代トップガンとの違いかつその初代の流れを汲んでいて非常に良かった。友をすでに失ったマーベリックは訓練生に執拗に作戦の失敗=死であることを伝え、そしてだれも失いたくないと思ってもいる。ここに人間の葛藤だったり悩みのようなものとそれを乗り越えるための訓練と成長が見られ、一つのドラマになる。
前作を生かしてドラマ展開でよかったし、ここが飛行機やトムクルーズがただかっこいいだけの前作と大きく違った。

 

まとめ
映像技術が進化しているのは間違いない。見どころは飛行機アクションシーンではないといわんばかりの論調をⅡでは展開したが、飛行機アクションシーンも非常に素晴らしい。その映像技術には圧倒されるがトムの進化も決して負けていない。
メイキング動画をユーチューブで漁ったが、「トムが自ら行動してトレーニングするから自分たちもついていけた。自分だけでは無理だった。」と数人のキャストが述べていた。これはまさに本作中のマーベリックにもろ重なる。
トムクルーズは自分にマーベリックの姿を重ねていたのかもしれない。初代から言われる通りトムクルーズは地球上でもっともかっこいいといっても過言でない。それほどトムクルーズはかっこいい。
だけれども、初代はトムと戦闘機がかっこいいという発想から、本作は人間ドラマ
に力点を注いだためトムのカッコよさがその外面内面ともに胸に響き渡る。

戦闘機の映像美、見通しの立てやすさからくる明快なストーリー設計、そしてそこで描かれる人間のドラマ、そしてそれを実現するマーベリックとトムのかっこよさ。
言葉では伝わらないほどの魅力と興奮が感じられた。

そして、バトンは渡された 感想

永野芽郁石原さとみ目当てで見に行った。
結論、面白くなかった。なぜ、作品に没頭できなかったのか分析してみた。

 

①登場人物=映画の装置?
例えば、永野芽郁演じる優子に最初意地悪していた高校の同級生2人は、なぜ意地悪していたのか、そして、なぜ急に優しくなったのか。一般的に考えればながの優子が頑張ってピアノ練習していたから優しくなったということなんだろが、例えば「優子ががんっばってピアノを練習する様子をこっそりみた」とか「家庭が複雑なことをたまたましった」とかの描写がなく、いきなり優しくなる。そして結婚式にも呼ばれる。
これは意地悪する2人組が最初は意地悪するけど、そのご結婚式にも呼ばれるようになるという友人を作り手が優子の近くにおきたかっただけに過ぎない。そこでは人物に感情の変化が丁寧に描かれることなく、物語の進行上作り手の都合がいいだけの存在(=ここではこういった存在を「装置」と名付ける)が誕生する。
他にも、二人目のお父さんである泉ヶ原さんがなぜ離婚した梨花の面倒を死ぬまでみていたのか(普通、離婚してそこまで面倒見る必要もないし、離婚しているのだからあんなに仲いいのは不自然ではないか)、早瀬くんと久しぶりに再開するのに結婚するのは不自然ではないか、など物語のストーリーそして尺的に装置として機能する人物が多くいたのではないか。


そもそも梨花が自分で子供を作れない身体とはいえ、優子のために何人も父親を変えるということ自体も不自然ではないか。

物語とはフィクションであるから作り手が、ストーリーの展開を踏まえて登場人物を配置する。そしてどんなに現実離れした話(例えば中学生が急にエヴァに乗せられたり、巨大怪獣が東京に現れたり)でも、フィクションだから視聴者は違和感なく受け入れる。
しかし、物語が進行する上で、脇役も含め登場人物の感情が現実的な思考回路をしている、つまり登場人物が物語の装置でないことは極めて重要だと感じた。

 

②人物が物語の核心を明言してしまう不満
森宮さんが冒頭で「クラス対抗リレーでバトンをわたせなくて、その頃の悔しさが未だある」みたいなことを言っていた。そんな男が優子を立派に嫁にだして、夫となる早瀬に優子というバトンを繋げた、というのが本作の感動ポイントである。
これを森宮さんが直接早瀬君に結婚式場に言ってしまうのはあまりにもナンセンスだと思った。説明を全部するなら、それは映画ではない。映画とは視聴者に解釈を委ねる場面も必要で、その解釈のやり取りが映画の醍醐味であると筆者は思っている。本作における「バトンとはなにか」を考えさせず答えを人物が言ってしまうのはこの映画を見に来ている人の知能を低く見積もりすぎなのではないか。

 

総評
優子は家庭環境は複雑であったが、とくにそれで悩んだりしている様子はあまり見られなかった(この点は実の親子でも対立を繰り返す早瀬君と対比になっている)。この映画のどこかで「子どもには幸せになって欲しい」と誰かが言っていた気がする(記憶が曖昧ですみません)。
本作は子どもが必ず幸せになるとても救いのある話となっており、作者は子どもが幸せに生きる世界を映画の中だけでも作りたかったんだなと感じた。
映画だからこそ善人しかいない世界も作り出せるわけで、そういう世界を作り出せるのも映画の魅力の一つであると感じた。

 

(500)日のサマー 考察

神作、こういう映画大好き。見終わったあと気持ちよくなる爽快感がある。
みたきっかけはyesmanででてきたズーイー・デシャネルがめちゃくちゃかわいったから。ありがとうデシャネル。あなたの美しさに惹かれなかったらこの映画をもう一度見ようとは思わなかっただろう。
かつて高校生の時に見たが、つまらなくて途中でやめたことをよく覚えている。
今社会人になり、結婚してみるとここまで面白く感じるのか、と驚愕している。
「卒業」も見たし、映画を解釈する能力もかなり向上しているから、面白く感じられたんだろうな。

いずれにしてもこれが2回目の視聴だが、実質一回目である。見終わったあと、考察を言語化できずもやもやしたので、youtubeで検索して、よく解説されてるのがあった。↓
https://youtu.be/KhzTIEAjpaU
https://frasco-htn.com/column/1545/
もう解説しつくされてるけれども、ここから独自の解説やちがう観点から考察したい。

 

上記サイト2つで既に解説されているとおり、本作は男視点からのみ、そして時系列がバラバラで描かれる。
そのため、サマーの心情がほぼ読み取れなくなっている。これが本作一番の特筆すべき演出で、これを理解しなければ本作の核心とテーマにたどり着けない。

 

① 男主人公(トム)がサマーにたぶらかされたという見方
 本作を真正面から見ようとするとこのような見方になるであろう(サマー視点でほぼ描かれていないため)。
 また、冒頭で「本作はフィクションで〜このクソビッチ」の作り手からの声明があるがこれによって、視聴者はサマーがクソビッチであるという見方しかできないという錯覚を起こさせる。(本作は脚本家の実体験が元になっているという、この声明はその男の本心だ)
 確かにトムは可哀想だ。イケアで手つなぎデートをして、シャワールームでセックスしたらそれは明らかに友達ではない。それでもサマーのほうは元々運命とか愛とかを信じてなくて真剣に付き合う気がなく、いつまでもトムを恋人認定してくれない。それなのに、いきなり婚約してただなんて。確かに可哀想。
 トムが置かれた状況をこのように解釈すると、ラストシーンは非常に救いのあるもので、大層爽快感がある。トムよ、夏(サマー)が過ぎ去っても必ず次の季節(autumn)はくるから、大丈夫だ。いつまでもサマーに恋焦がれてないで次に行けよ、というメッセージは、失恋から立ち直る若者に勇気を与える。

② サマーはトムを運命の相手と信じていたという見方
 トムは確かに可哀想だが、本当にそれはトムだけ可哀想なのだろうか。視聴者は一回みただけで、トムへの違和感を正しく感じ取れただろうか(恥ずかしながら私は一回目じゃ無理だった)。
 トムはとにかくヘタレで女の子の扱いがなってない。
・カラオケで最初に会った時「ともだちとして好き?」って聞かれた本当に「ともだちとしてすき」と答えるやつがあるか、このアホ。そして、サマーを送っていけ
・バーで酔っ払いに絡まれたときに、早くサマーを助けろ。「この子はおれの連れだ」ぐらい言えや
・「卒業」をみたあとに「これはただの映画だよ」なんて共感性0%の発言をするな

などなどあるが、そんな彼のどこにサマーは惹かれたのか。
それはやはり、最初の社員全員でのカラオケパーティーだろう。
ここでは
トム:愛や運命を信じる
サマー:愛とか運命は妄想に過ぎない

と両者述べており、全く正反対の意見をもつトムにサマーは興味を抱いた。
愛とか、運命とか言ってたのにこのざまである。500日かけてサマーはトムに次第に興味を失っていく。が、それにはトムにも原因があったのだ。

サマーは口では、愛とか運命は信じないと言っていたが本当は違ったようだ。むしろ、それを信じたかったからこそ、トムのカラオケ店の発言に惹かれた。

なのにサマーが「真剣に交際するつもりはない」といったらトムはイケアで
「別にいいよ気楽にいこう」
なんていってサマーに流されるし(そこは、おれが君を変えてみせるぐらいいえよ)
卒業みて、号泣してるサマーがなぜ泣いているかも理解できない。
(注:卒業のラストシーンで現実に帰るふたりをみて、現実の辛さをしってないた。のではなくて、花婿が花嫁を強奪するというラブストーリーに感動してないたんだと私はおもった)
本当はサマーはあのぐらい強引に結婚を迫って欲しかったんじゃない?

婚約指輪をはめた手で手を重ねても「君の幸せを願っているよ」しか言えないし(卒業みてんだったらその後の展開わかんだろうがよ)

などなど、サマー視点から見れば、トムにどういう風に接して欲しかったのか考察できる。

よって本作は①のように失恋者を元気づけるメッセージとともに、失恋者に自身の行動への反省を促す作りともなっている。

本作は最初ふたりがいっていた恋愛観が最後全く真逆になるという対比構造になっている。
その結果を得るまでに500日かかるわけだが、トムのほうは理解が容易い。辛い思いをしてもう愛とか運命を信じられなくなったのだろう。サマーの方も、運命の人に出会えたと思えたからそのように考えが変わったんだろうけど、トムもきっとその運命の人になり得たチャンスがあったのになあ。
サマーは、「パリで出会って云々、、、それが今の夫だ」と言ってたけど、それはそう思い込んでいるだけだ、もし最後サマーが婚約指輪をした手をトムに重ねた時に「卒業」のように、サマーを強奪したら、そしたらトムが運命の相手になれたはずだ。運命の相手は「出逢う」ものではなくて、「作る」ものなんだと、というメッセージ性も感じられる。

追記
途中登場人物たちが「愛」について語るシーンがある(トムは何も語れずに終わるけれども)。そのシーンでトムの友達がこんなことをいう。

「理想は巨乳がいい。だけど夢の理想の女の子より今の彼女が一番いい。なぜならリアルだから」

本作の中で案外一番刺さった言葉かもしれない。
相手に求める理想はきっといくつもある。たとえ相手が自分の理想条件を満たしていなくても、最も大事なことはその相手が実存し、自分と一緒にいてくれることである。理想は二の次でリアルが最も大事。
「今よりもっといい理想の相手がいるんじゃないか」と考える結婚適齢期男女に見てもらいたいシーンである。

 

初見殺しシーン
・14分頃のシーンの154日目でトムがサマーの様々な部分が好きと賞賛するシーンがある。その会話は道で友人と話しているはずなのに、いきなり室内で
「彼女といると不可能が可能になる、生きがいを感じる。」と答えるシーンが挿入されている。これは、後に愛のインタビューをうけるシーンに対応している。初見じゃまずわからない。後の愛のインタビューは答えられなかったが、この時はまだ答えられたのだ。

本作が童貞と美女のすれ違いという点(恋愛ではなくて)
・22日目トムがサニーに「週末どうだった?」と聞いたら「最高を強調していた」などと熱弁し、「週末ジムと会った男とセックスしたのだ」と勝手に妄想した。また彼女に話しかけられたいがために「the smith」を会社で流したりしていた。いたく童貞だ。悲しい童貞の所業だ。

対して、サマーは高校時代からモテモテであることは最初示されている。これは美女と童貞のすれ違いである。

そんな彼女は「恋は絵空事だ」と断言するがトムは「恋に落ちればわかる」と反論する。そして、その持ち前の童貞らしさ全開で、サマーがカラオケですきすきサインを出してるのに全く乗ってこないどころか「友達としてすき」と言ってしまう。サマーはこの点を気に入ったのだろう。いままでの男はサインをだせばいちころだったのに、トムは童貞ゆえに違った。

・トムがサマーの部屋に始めて招かれたとき、サマーはゆめの話をしたあとに「私は一人ぼっちだ」と話す。
これは友達が常にいるトムと対比を示すサインになっている。
そんで、この話にたいしての反応が「ぼくは特別なんだね」は笑った。
女の子が一人ぼっちだっていってるんだから、僕がそばにいるよぐらいいえよ

・映画に行く途中、トムは痺れをきらして「僕たちの関係はなんなのかな」と聞くとサマーは「さあね」と答える。だけどこれは友達からスタートしたことを考えれば昇格なのに、それにトムは気づけていない。

・アリソンという別の女と会うシーン、この子にまずサマーの話をする時点で恋の達人もしくは成熟した大人とは思えないが、それ以上にサマーのことを薄情で浅ましいおんなかロボットかの2択としてしか捉えていない。
自分に落ち度があった可能性を全く考慮していない。

・パーティに誘われて「幸福の建築」をプレゼントに選ぶそのセンスに笑ってしまったよトム。新幹線の中で褒められたから間に受けてしまったのかな。


本作のテーマ:愛とは?運命とは?
本作のテーマは愛とはなにか、運命とはなにか、だと思う。本作はこの神秘的かつ抽象的、哲学的なといに果敢にそしてユーモラスに応えている。

愛とは?
・サマーと共通のツールである、映画やポップスを憎むようになってしまうトム。それが爆発するのがカード会社での会議のシーンだ。

「映画やポップス、カードでさえも嘘を並べている。本当のことを語るべきなんだ」

サマーから婚約者がいると本当のことを伝えられていなくて大層ショックを受けたトムは、この世がデタラメだと確信する。
たしかにトムは本当のことを語られなかったけど、トムもサマーに自分の気持ちを真正面から伝えI LOVE YOU と伝えていたのかな。本当の気持ちを伝えられなかったのは、サマーも同じなのではないか。

トムが言うとおり、たしかにポップスも映画もフィクションだから嘘というば嘘だ。それらをともに愉しんで感じた気持ちは本物のはずだし、ましてはグリーティング会社に勤めて甘い言葉のカードをいっぱい作ってんだから、そのカードを使って気持ちを伝えることはできたんじゃないのか、トム
君がデタラメだと罵ったカードに書かれている言葉は嘘に感じるかもしれないけど、それを用いて本当の幸せを手に入れられたかもしれないのに。
そして君が童貞らしさ全開じゃなくて、もっとサマーを気遣っていればサマーは君の彼女になったよ。愛に必要なのは「本当の気持ちを伝えること」と「相手への気遣い」なのか。

運命とは?

最後にオータムと会う場面。オータムはトムとすでにあっているという。がトムはそれに気づけていない。
そのことから、そしてナレーターもいっていたとおり宇宙の力を日常レベルで理解するのは不可能なのだ。人々はそれを後付けでそして都合のよいように「運命」と呼ぶ。しかし本当にあるのはただの「偶然」だけ。
これはかつて運命を信じていたトム、そして最終的に旦那と運命的な出逢いをしたといっていたサマーへのカウンターとなる。
これが本作でもっとも言いたいテーマだろう(尺の構成的に考えても)。
運命なんてない。あるとしたら、その人の偶然のであるを運命と思えるかどうかということだけなのだ。

 

映画「卒業」とのからみ
冒頭の子ども時代のシーン、トムは「卒業」を「拡大解釈」したと字幕であらわされるが英語ではmisleadingと言われている。卒業の一番最後のシーン、現実に戻りこれからどうしようか考えるふたりの表情に気づけず、ただ純粋にハッピーな物語だとおもったのだろうか。
ふたりで卒業を見に行き、サマーは泣いてしまう。が、それは卒業のラストが現実めいたものを感じさせそれに落胆して泣いているようには見えない。むしろ、あのふたりに強い憧れを抱いているように見える。
し、だとするとサマーがトムをベンチでまっていたり、そこで手を握ってきたり、結婚式で踊ったり、パーティーに誘ったこともガテンがいく。トムに奪ってほしかったのだ。あの卒業のように。
それをしてくれないトムに泣いた、もしくは卒業のふたりに強い憧れを抱いてないたのどっちかだと思う。
のだが、じゃあトムは卒業をどのようにmisleadingしたのか。ここは現段階ではわからない。

また見よう。今度は卒業のあとに。

マスク 考察

ジムキャリーファンとして本作をみた。彼が主演した映画をみるのは今月で「yesマン」「トゥルーマンショー」「エターナルサンシャイン」に続いて4作目だ。コメディーなので見ていて飽きず、最後まで比較的面白く見ることができる。さらに、話の展開がテーマと関連付けられているので、面白い話の構成になっているとおもった。

みんな仮面をつけて生きている?
何やら専門家のような人が、こんなことをテレビで言っているシーンがある。これはつまり「現代人は本当の自己を押し殺し、他人から望まれる姿で生きている」ということだろう。(心理学用語でいうところの「ペルソナ」ですね。)

そんな人が本作では何人かでてくる。
そのうちの一人がジムキャリー演じる銀行員のイプキスだ。彼は家でコメディーアニメを見るほどコメディーが好きなのに周囲に全くそんな素振りは見せない。それに本当は高い車にのって女の人に見栄を張りたいと思っている(が、彼はそもそもパーティにも入場できない)。

そんな彼の本性・欲求を実現させるのがマスクだ。

本作が面白いところは、本来マスクは自分の素顔を隠す=自分の本性や欲求を他人に隠す装置なのに、本作では逆にマスクをかぶると自分の欲求に忠実になるという点だ。
現代人はマスクを被って生活し続けていて、マスクをかぶった姿(=自分の欲求を抑えた姿)が本当の顔になってしまっている。だからロキの呪いがかかったマスクをかぶると欲求を抑えた現代人の姿から開放される(裏の裏は表みたいな話である)。

イプキス以外にもマスクをかぶっている者が二人いる。
一人は敵ドリアンの愛人でキャメロン・ディアス演じるティナ、もう一人が新聞記者のペギーだ。

ティナはドリアンの愛人としていつも振る舞っており、そのため序盤で銀行強盗の手伝いをさせられている。だが、マスクマンと出会い、ドリアンの愛人として振舞うことに疲れたティナは本当の自分の姿を取り戻そうとする。
対して、ペギーは新聞記者としてイプキスに振舞うが、最後はイプキスを罠にはめる。その狙いはドリアンから支払われる50万ドルという大金で、そのために新聞記者としてスクープを書いて稼ぐのをやめたのだ。彼女が本当にしたかったのはスクープを書く事ではなく、金を得ることだった。

両者ともに、マスクをはいで本当の姿に物語の途中でなる。
が、本当の姿になった先が
ティナはロキのマスクがなくともイプキスのことがすきな純粋な女性
ペギーは記者という身分を利用して金を得た汚い女性

という対比構造になっている。


マスクはあくまで欲求を具現化する装置
ドリアンも後半マスクを着けるが、暴力的なことは着ける前と同じで、マスクの力が備わって強くなっただけに過ぎない。
マスクは欲求を具現化する装置であって、つける本人がどういう欲求を持ってるかで変わってくる。

ドリアンがマスクをして幸せになったのかといえば、逮捕されているのでそんなことはない。
また、自分の欲求のとおり動いたペギーも幸せになったかどうか描かれていない。

結局マスクを外して自分の欲求に従って生きていくことが大切なのではなくて、自分が美しい人格や人から望まれる欲求をもっているかどうかが、大事なのだろう。
「マスクを外して生きよう」ということより「人格を磨こう」というメッセージ性をイプキスとドリアンの対比、そしてペギーとティナの対比を通して感じた。

フリー・ガイ 考察と感想

ゲームが完全に社会に一般的に受け入れられたため映画、漫画やアニメのなかでNPC(Non Player Character)が登場することもさほど珍しくない。


思いつく限りで挙げると「ジュマンジ(案内役のガイド)」「ハンターハンター(グリードアイランド編)」「エンジェルビーツ」などにNPCキャラが登場している。これらにでてくるNPCは完全な脇役であり、作中において重要な役割を持たない。


しかし、NPCに意思をもたせ、映画の一人のキャラクターなのに、主要キャラとして扱われる映画がある。それが「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ」である。同作はしんのすけらが映画館で映画を見ていたら映画の中に入ってしまい、現実に戻れなくなるストーリーである。しんのすけらは「つばき」という少女と出会い協力しながら現実に生還する。が、つばきは実は映画のキャラクターであり、現実世界の人間でなかったことがわかるという非常に切ない展開を同作は見せる。


クレヨンしんちゃんで、映画の中で主人公が映画に入るというメタ構造を披露するのもすごいが、NPCキャラであるつばきが意思を持ち、主人公であるしんのすけの交流を描くという点が斬新であり、おもしろかった。

 

主人公がNPCである「フリー・ガイ」の構図は「カスカベボーイズ」の逆バージョンでさらに斬新だ(「カズカベボーイズ」で例えるならば、生身の人間であるしんのすけでなく、つばきが主人公になったようなものだから)。NPCが登場する作品はあっても、NPCが主人公にする設定はかなり斬新に感じられておもしろかった。


①社会変革に関するメッセージ
ガイは自分を生んだゲーム会社の社長を倒して、彼の世界を「殺人や強盗がはびこる町」から「恐竜や妖精がいる町」に変革させた。


NPCであるガイはもともと銀行に勤めており、毎日必ず同じことを繰り返す。映画の冒頭では、ガイは殺人や強盗がおこる街を楽園と称しており、充実している生活を送っていると思っていた。しかし、モロトフガールと出あい、同じ生活に違和感を感じ、最終的には自分を作った社長を倒すという「神殺し」をする。彼がNPCで最初に「今の社会の崩壊をとめてよりよいものに変えないといけない」と訴え実行した。

 

ガイ=観客/フリーシティ=私たちがいる現実世界の社会

ガイとは映画を見に来ている私たち観客のメタファーだ。私たちも、毎日同じ職場にいき同じ人とあい、代わり映えのない生活をしている。

ガイが他のNPCに向かって演説する場面でエミリーに
「君たちの世界で銃の問題はあるか」
とガイが聞くシーンがある。
そうするとエミリーが
「それは私たちの世界でも大問題よ」
と答える。

 

このシーンは、今私たちがいる現実社会にも大きな問題があることを確認するシーンである。問題を解決していかなければならないのはガイだけでなく、私たち観客も一緒であるということを訴えている。

 

つまり本作では『ガイ=観客/フリーシティ=私たちがいる現実世界の社会』として展開しており、この映画を通して監督は

「我々の社会は実はフリーシティみたいな惨状だが、君たちはその悲惨さに気づけていない。ガイのように気づいて社会を変革しよう」

という説教臭いメッセージを感じられる。

 

 

②人類はAIの成長速度に勝てないのか?という問い
ゲーム開発者であるエミリーはいっつもコーヒーを注文しその中に砂糖を2ついれる。ガイもそのように設定されていたが、途中でカプチーノを注文するという進化を見せた。


コーヒーをたのむというのが冒頭からの前フリになっていて、筆者はエミリーも最後ガイと同じように進化(成長)して、珈琲店カプチーノをたのむんだと思っていた。が、その場面はなかった。

 

これは結局は人類は変われないことを暗示しており、成長スピードではAIが遥かに勝ることを暗示している。
さらに人工知能を排除しようとしたゲーム会社の社長は社会から批判されることになることから、監督は「人工知能を受け入れなければ、社長のように非難されたり、いずれAIからの報復される」というメッセージが本作にはある。


まとめ
結局次元が違う場所で過ごす、ガイとエミリーは結ばれることがないので、映画のラストをどうまとめるのか非常に気になっていた。ラストはとても納得いく終わり方で良かった。
ガイの友達である警備員が警備ベルトを落とすカットの後、ガイとふたりで町に行くシーンで本作は終わる。

「本当の楽園が手に入れば、我々も彼らのように仕事をやめ、本当の意味で自由な生活が手に入る。だから社会を変えよう」という監督からのメッセージが最後のベルトを落とすワンカットだけで示されていて、うまいなとおもった。

グリーンブック 感想

2019年アカデミー賞作品賞受賞作。アカデミー賞の名はだてじゃない。素晴らしかった。ラストシーンでドンがトニーの家に来るところで本当に号泣した。絶対二回目みる。本作は、①黒人差別を問題提起する作品でもり、②自分が何者かを見失ったときに希望を見出させてくれる作品、という2つの側面を有している。

 

①黒人差別の問題提起
本作が描いているのは1960年代のアメリカの黒人差別である。

ドンは黒人でありながら、黒人文化にうとくピアニストをしている。さらにその振る舞いも紳士的だ。

対してトニーはイタリア系白人であり、下品で横暴な振る舞いも目立つ、黒人の文化に理解がある白人だ。

 

ふたりは白人と黒人でありながら、その中身は、一般的に想像される白人黒人とは逆のものである。この紳士的な振る舞いをする黒人ドンと横暴な白人トニーという対比構造がステレオタイプから逸脱している設定で面白い。

 

とはいえ共通点もある。それはふたりとも純粋な意味での白人アメリカンではないということだ。
ドンが差別を受け続けるのはみてのとおりだ。レストラン・トイレが使えなかったり、バーでのんでただけて殴られたりその様子はひどい。トニーはそこまでのことではないが、イタリア系ということで警察官から「お前も半分ニガーか」と言われてしまう。

 

本作は、性格と肌の色は正反対でも、自分が純粋な白人アメリカ人じゃないという共通点をもつふたりの物語である。

 

性格がちがうふたりが最後のコンサートで見せる行動とは
性格が対比構造になっているが、それがラスト「9回の裏」と呼ばれる最後のコンサートで生きてくる。お互いがお互いの性格に影響されて成長するのだ。

 

ドンは今までどんな差別も耐えてきた。しかし、この時だけは違った。レストランが使えないことを理由に演奏をキャンセルしたのだ。これは自由にしたいことをしてきたトニーの様子を見てきたからだろう。そもそも自分が差別されてまで演奏する理由はないのだ。「こんなところで演奏したくないから演奏しない」と思い切りのよい判断ができるようにドンはなった。

 

対してトニーは、金で解決しようとするマネージャーに直接手を挙げなかったし、その買収にも応じなかった。なぜならトニーはこれまでの旅を通して黒人問題は金で解決できないことを理解していたし、ドンから「暴力を使えば敗北だ」と言われていたからだ。トニーはそこに至るまでに、警察官をスーツで買収しドンを救っている。この時はドンを救い目的地までにたどり着くというためだけのために買収を計ったが、9回の裏になり、もっと大事なことに気づいたのだ。

この最後でお互いがお互いの良さに惹かれて成長する様子を見せつけられて、もう泣きそうになった。

 

②自分が何者かを見失ったときに希望を見出させてくれる作品
グリーンブックは黒人差別の話だろうと思っている人がきっと多いと思う。
だけど、グリーンブックにはもう一つのテーマがある。それが「アイデンティティの拡散」だ。

ドンは黒人なのに、白人みたいな丁寧に振る舞いや作法をする。そのためか、周りの黒人からも仲間意識を持たれない(むしろ途中で車から降りたときの、農地で働く国民からは敵意さえ感じられる)。そして、もちろん白人ではないので白人からも排斥される。しかも自分は身体は男なのにゲイで男がすきなのである。それで唯一の肉親である兄とも疎遠なのだ。

 

ドンが自分が何者なのか見失うのもそれは無理もない。自分を自分として認識させるための他者との適切な関わりや関わるをもつコミュニティがないのだ。もっと言簡単に言えば自分を受け入れてくれる人がいないのである。

 

そんな彼が旅を通して居場所を2つ見つける。
1つが、黒人が集うバーだ。もともとクラシックをやって後に人種的問題からポップスになったドン。いやまてよ。黒人と言ったらジャズだろ。
黒人が集まるバーで(おそらく)はじめてジャズを即興で演奏したドン。居合わせたたのミュージシャンと奏でる音楽は心地よかったにちがいない。かれは「またやろうかな」と演奏後言っており、黒人が生み出したジャズとその演奏仲間たちにひたしみをもつ。

 

(そもそもなぜトニーが雇われたのか。トリオだったらギリギリ1つの車で荷物含めて移動できそうなものである。トリオの仲間たちは仲が悪いわけではないのだろうが、心からの友かと言えばそうではないのかもしれない。そもそも、ドンは白人たちの前で演奏することも本当は嫌っていた。バーで演奏した後の笑顔を、トリオの時はみせていなかったことからも、これまでの旅の演奏が彼の心の拠り所になり得ていないのは明白である。)

 

2つ目がトニーとその家族である。トニーから「さみしい時は自分からいかないと」とアドバイスをもらっていた。ドンはそれを実行したのだ。
これについてはあまり語る必要もない。あれほどトニーは黒人を嫌っていたのに、旅を通して、人種を超えてドンの親友になったのだ。こうしてドンは居場所を見つけることができた。

 

 

この映画の魅力
黒人差別をテーマにした映画は古今東西たくさんある。アメリカでも未だに黒人差別はあるのかもしれないけれども、少なくとも日本人にとってそれは遠い国の出来事で、自分の身の上のこととして感じることは難しい。
だけど、本作は黒人差別を描きつつも、もう一つ「アイデンティティの拡散」というだれもが一度は経験するテーマも内包している。
成熟した普通の日本人が本作を見たときに、黒人がうける差別については100%共感できないかも知れない。でもドンがいっていた「自分は誰なんだ」という悩みについては多くの人が共感できるのではないだろうか。

 

本作は黒人の物語ではなく、1人の黒人男性が心からの拠り所を見つける話である。この構成から筆者は「黒人を色メガネをつけて見ないで、君たちと同じ人間として見ておくれというメッセージ」を勝手に読み取った。

yesマン 感想

めちゃおもしろかった。ほとんどの場面がギャグテイストで進行していくため、余裕で最後まで飽きずに見られる。そして、ギャグテイストなのに、本作で描かれるテーマはかなり人生の哲学を揺さぶるものがあり深い。

本作は主人公カールの内面の成長物語で、生き方の変容を視聴者は見せ付けられる。本作を3分割すると以下のようになるだろう。

 

⑴NOしか言えない時代。
友達の誘い、銀行の融資、全てにおいてNOとして言えない。一人で気楽であるとともに、今後孤独死するのではないか(そういう夢を見ている)という不安があり、人生に楽しみがない。

 

⑵YESしか言えない時代。
セミナーにいき、カールはYESしか言えなくなる。その結果、世界は広がり、恋人もでき、友人も増えた。彼の人生が全て好転し始めたのを視聴者は感じるだろう。

 

⑶NOもYESも言える時代。
恋人に同棲を迫られたカールはYESという。しかしそれはセミナーのせいでYESしか言えなくなっているだけであり、本心からのYESではないことが彼女にバレてしまう。
そこから彼女とは音信不通になるが、彼女に「同棲はNOだけどそばにいたい」という思いを伝えるために走る(その間ナースに静止されても全てNOと言い放つ)。彼がYESの呪縛から解き放たれて自分の本心で会いに来てくれていることを感じた彼女はカールとよりを戻すのであった。

 

NOしか言えない時代のカールはとにかく人生がつまらなそう。YESしか言えなくなって、彼の人生は楽しそうになったが、それは本当の彼、そして本当の人生ではない。ただYESと言っているだけだ。NOもYESも言え自分で選択できるようになって始めて彼は自分の選択で生きるようになったのだ。


セミナーの教祖が「YESと心から言えるようになるために、最初は全てに対してYESと答えるように仕向けている」といっていた。
セミナーの目的は人々がたんにYESということではなく、心からのYESをいうことなのだ。

 

カールはボランティアなんて興味がなかったのに、恋人・仲間たちと最後ボランティアをしている。YESからの呪縛から解き放たれたのにボランティアをしているのは、『彼がそれを望んで行いホームレスからのお願いに心からのYESを発している証拠』だ。このシーンはセミナーのあとにホームレスと助けた冒頭シーンと対比構造になっている。あの時のようにいやいやYESを言っているわけじゃないのだ。それほどまでに彼は成長したし、他者のために生きようという心意気とそれに賛同する仲間を手に入れた。

 

細かい伏線の回収が面白くて、そこも爽快であった。
忙しさや煩わしさにかまけてNOと否定的になってしまう現代人を風刺する良作。