マスク 考察

ジムキャリーファンとして本作をみた。彼が主演した映画をみるのは今月で「yesマン」「トゥルーマンショー」「エターナルサンシャイン」に続いて4作目だ。コメディーなので見ていて飽きず、最後まで比較的面白く見ることができる。さらに、話の展開がテーマと関連付けられているので、面白い話の構成になっているとおもった。

みんな仮面をつけて生きている?
何やら専門家のような人が、こんなことをテレビで言っているシーンがある。これはつまり「現代人は本当の自己を押し殺し、他人から望まれる姿で生きている」ということだろう。(心理学用語でいうところの「ペルソナ」ですね。)

そんな人が本作では何人かでてくる。
そのうちの一人がジムキャリー演じる銀行員のイプキスだ。彼は家でコメディーアニメを見るほどコメディーが好きなのに周囲に全くそんな素振りは見せない。それに本当は高い車にのって女の人に見栄を張りたいと思っている(が、彼はそもそもパーティにも入場できない)。

そんな彼の本性・欲求を実現させるのがマスクだ。

本作が面白いところは、本来マスクは自分の素顔を隠す=自分の本性や欲求を他人に隠す装置なのに、本作では逆にマスクをかぶると自分の欲求に忠実になるという点だ。
現代人はマスクを被って生活し続けていて、マスクをかぶった姿(=自分の欲求を抑えた姿)が本当の顔になってしまっている。だからロキの呪いがかかったマスクをかぶると欲求を抑えた現代人の姿から開放される(裏の裏は表みたいな話である)。

イプキス以外にもマスクをかぶっている者が二人いる。
一人は敵ドリアンの愛人でキャメロン・ディアス演じるティナ、もう一人が新聞記者のペギーだ。

ティナはドリアンの愛人としていつも振る舞っており、そのため序盤で銀行強盗の手伝いをさせられている。だが、マスクマンと出会い、ドリアンの愛人として振舞うことに疲れたティナは本当の自分の姿を取り戻そうとする。
対して、ペギーは新聞記者としてイプキスに振舞うが、最後はイプキスを罠にはめる。その狙いはドリアンから支払われる50万ドルという大金で、そのために新聞記者としてスクープを書いて稼ぐのをやめたのだ。彼女が本当にしたかったのはスクープを書く事ではなく、金を得ることだった。

両者ともに、マスクをはいで本当の姿に物語の途中でなる。
が、本当の姿になった先が
ティナはロキのマスクがなくともイプキスのことがすきな純粋な女性
ペギーは記者という身分を利用して金を得た汚い女性

という対比構造になっている。


マスクはあくまで欲求を具現化する装置
ドリアンも後半マスクを着けるが、暴力的なことは着ける前と同じで、マスクの力が備わって強くなっただけに過ぎない。
マスクは欲求を具現化する装置であって、つける本人がどういう欲求を持ってるかで変わってくる。

ドリアンがマスクをして幸せになったのかといえば、逮捕されているのでそんなことはない。
また、自分の欲求のとおり動いたペギーも幸せになったかどうか描かれていない。

結局マスクを外して自分の欲求に従って生きていくことが大切なのではなくて、自分が美しい人格や人から望まれる欲求をもっているかどうかが、大事なのだろう。
「マスクを外して生きよう」ということより「人格を磨こう」というメッセージ性をイプキスとドリアンの対比、そしてペギーとティナの対比を通して感じた。