かぐや姫の物語

 宮崎作品のような派手さはないが、高畑勲監督らしい丁寧に人物の心情を描く良作である。

 

 印象に残るのは無理難題を求められる貴族らとかぐや姫のやり取りである。貴族と会う前にかぐや姫は教育係におはぐろをぬることを強制され、その流れで姫は「それでは笑ったり、泣いたりできないじゃないの」といい「高貴な姫君はひとではないのね」といって部屋から飛び出す。
 その後高貴な身分である貴族たちがかぐや姫の前で嘘をついたり、怒ったり、船のうえで龍に恐れたりする。これは高貴であろうがなかろうが人は皆感情があることを表す。このシーンは、本作が人の感情をテーマとして描いていることへの伏線ともなる。
 すてまる兄ちゃんと再開した時にかぐや姫が言った「生きてる手応え」というワードも印象深い。姫が感情を最も表すことができる故郷で、幼い時を一緒に過ごしたすてまるとともに感情いっぱい野原を駆け回るシーンでこの「生きてる手応え」という言葉がかぐや姫から発せられる。本作は感情豊かに過ごせた田舎で育った子ども時代vs感情を表に出せなくなった都会で過ごす大人時代という対比構造が描かれる。大人になって、姫が唯一感情豊かになれたのはこのシーンのみで、これは「生きてる手応えに必要なのは感情である」というメッセージが込められている。
 
 そして、この感情に対しての高畑がもっとも言いたいことをかぐや姫に監督は代弁させており、これが本作の一番の見所である。つまり、姫が翁たちと別れるシーンで高畑の言いたいことが全て託されているのである。
地球での記憶を消す天の羽衣を着せようと月からの使者はこういう。「さあ、まりましょう、心ざわめくこともなく汚れも拭いされましょう」。それに対して姫はこう言う

 

「汚れてなんかいないわ。」
 
 姫は望まない貴族・天皇からの好意、そして父親からの望まない親切心で非常に困っており、心底嫌がっていたはずである。そして、この場面では翁たちとの別れを心から悲しんでいる。こういった自分を苦しめる他者からの好意・親切心そして悲しみというものが生み出される全ての元凶が人が生まれながらにしてもつ「感情」であることを姫は知っている。
 にも関わらず、かぐや姫そして高畑監督はそういった感情さえも「汚れていない」と言い切るのだ。
 

 人は生まれながらにして醜く汚い感情をもつ生き物だが、そんな人類が人外であるかぐや姫から肯定される、というお話である。