キャラクター

おもしろかった。サイコスリラーというジャンルをメタ的に捉えていたり、題名「キャラクター」の意味が深く作品に関わってくるなど、ただのスプラッタ映画ではない。映画ファンをうならせる良作なのではないか。

 

 

1映画におけるサイコスリラーというジャンル
サイコスリラーとはグロ描写が含まれるジャンルのことであり、人によってはあまり好まれないジャンルである。が、このグロ描写だったり殺人鬼のサイコパス感がたまんない人にはたまらず興業として成り立つ(現に筆者もわざわざ映画館にまで足をはこんで観た)。
本屋で山城と両角が話すシーンが本作がサイコスリラーをメタ的に捉えている証拠ではないか。

 

両角「先生だって漫画の中で人を殺して楽しんでるじゃないか」
山城「ちがう!」
両角「ちがくない」

 

という問答が本屋で繰り広げられていたが、この両角のセリフはいきなり我々観客に向けられて発せられているとも考えられる。我々だってわざわざ映画館に足を運び、本作をみてフィクションとはいえ人が殺されるシーンを鑑賞している。実際に我々は人を殺してはいないが、フィクションの中で人が殺されることを受け入れている。これは4人家族を執拗に漫画の中で殺し続ける山城も同様である。
つまり、サイコスリラーというジャンルが成り立つのは、人の中に存在する「殺傷衝動」のためであり、この衝動は誰しもが持っているものである。

その点において両角が言う通り、
山城と両角そして我々も「人を殺して(殺している場面をみて)楽しんでいる」んのである。
このサイコスリラーというジャンルの本質をサイコスリラー映画である本作を通して伝えるというメタ構造になっている。

 

2キャラクターという意味
前述したとおり、山城は漫画の中で、両角はリアルで人を殺して楽しんでるという共通点がある。が異なる点もあり、それは

 

山城 漫画のキャラクターをうまくかけない
両角 自分のキャラクターがわからない

 

ということだ。
ただ初めの事件で二人が目が合った瞬間山城曰く
「僕があいつに入って、あいつが僕にはいった」
らしい。

 

これはどういうことだろうか。
あいつが僕に入ったというのは、両角からインスピレーションを受けて、リアルな殺人鬼描写が描けるようになったことだろう。
僕があいつに入ったというのは、山城が両角にキャラクターを与えたということだ。今まで自分が何者なのかわからなかった両角は、漫画34のサイコパスキラーの模倣をするようになる。山城は両角にそのサイコパスキラーのキャラクターを与えたのだ。これが「僕があいつに入って」の真相だろう。

 

ここにお互いがお互いを補い合う最強のサイコパスキラーが誕生したのだ。


山城の自宅で決戦がなされるシーン。漫画では漫画家がキラーに刺されキラーが漫画家の上に覆いかぶさる。しかし、現実では山城が両角に覆いかぶさって戦いは終わる。これはつまり山城こそが正真正銘のキラーであることのメタファーなのではないか。
そして、なにより山城が両角を刺す瞬間のあの顔。なにか自分の中にあった隠してきたものが出てきてしまったのだろう。

菅田将暉の演技下手だなあと思っていたけど、ここに来てこの演技は殺人鬼をうちに宿す青年を演出するための演技だったのかと確信した。
両角は捕まったが、山城がいう「僕があいつに入って、あいつが僕にはいった」状態はまだきっと続いている。山城は自分で作った幸せな4人家族をいつか自分の手で壊すのではないだろうか。