ジョーカー

社会派映画。バッドマンシリーズもこんなかんじなのだろうか。 

 

 アメリカ資本主義社会で生きる弱者が多く出てきる。弱者の中には、貧困な労働者や障害者などが含まれるが、アーサーは貧乏かつ、障害者かつ、虐待をうけた過去をもつ。障害者の福祉サービスが予算カットになり、障害が理由で友達もおらず、そして実は自分は養子で、母親が義父からの虐待から守ってくれなかったことを知り、国・友人・家族の三者から孤立していった。まさに社会的弱者である。  

 そんな、社会的弱者であるアーサーは作中ではどんな描き方をされてきたのか。アーサーは、完全な悪と言い切れない境遇に何回も遭遇する。例えば、電車の上級国民3人を殺すのだって、きっかけはやつらがちょっかいだしてきたからだ。 母親を殺すのだって、「ハッピーになれ」という洗脳をして、笑い出す障害の発生理由を過去に虐待に結び付けないようにしていたためだ。また、大物コメディアンを殺すのだって、最初に彼がアーサーのことをテレビで笑いものにしたからだ。

 

 アーサーを完全悪として捉えると恐らく、この映画の解釈をミスリードする。むしろアーサーはかわいそうでなやつなのだ。その証拠として例えば、経済的・障害・家族というハンデキャップや、人から受ける数々の嫌がらせ(上述したものに加えて、子供から看板うばわれリンチされたり、実父といわれる資本家から殴られたり)がある。また、快楽殺人者でないのは確かで、家にきたでかいピエロは殺し、それを見られているにも関わらず、小人は殺さなかった。分別はつくのだ。

 

 アーサーがされたことに対して殺人を犯すといのはあまりにも釣り合いが取れていない。が、それは社会をつくってきた資本家の言い分だ。アーサーは後半で「笑いってのは主観的なものだ」と語るが、正義も同様だ。なにが正しいのかは判断するのは主観に基づく。ただ、社会のルールは資本家側に一方的に作られて、マイノリティの意見は反映されない(資本家はアーサーを殴ってもオッケー、大物司会者は番組で人を馬鹿にしてオッケー、だけどアーサーはだめ)。社会的弱者の正義の言い分は社会には通用しないのだ。

 

 一方で、アーサーの殺しを賞賛するものも数多く現れる。労働者階級にとってアーサーは英雄で正義なのだろう。

 

 この映画は、『社会の善悪とは誰がきめるのか、その善悪の形成過程に批判的になれ』というメッセージが込められているのか、しれない。アーサーは映画の最後に突然笑い出し、「君には理解できない」と呟く。ここでいう「君」とは「映画に金を払って見にくることができる我々」のことを示唆しているのではないか(作中で資本家が映画館で映画を見ている。映画とは資本家の象徴)。つまり、「アーサーのような社会的弱者の正義の言い分は、映画館にきているような観客には理解できない」。そんなふうな監督からのメッセージを感じる。