天気の子

新海誠作品の「天気の子」。以下考察とネタバレ

 

近年pixerやdeisneyにおける最も主要なテーマが「役割からの開放/放棄」であることは周知のとおりだ(インクレディブルファミリーでは女性男性という役割、トイストーリー4ではおもちゃという役割、アナ雪ならエルサが女王という役割、からの開放など)。新海誠の天気の子でもテーマは「役割」である。
 本作品では様々な人がいろんな役割を有していく、もしくはそもそも有している。その一例は以下の通りである


穂高

①東京にきてホームレス生活等するが、雑誌事務所に雇われ編集者としての役割を得る。
 →ホームレス生活から抜け出し、誰かと衣食住をともにできる
②ひなにとって穂高は「私のビジネスパートナー」(弟にこのように紹介しているシーンがある)
 →自分もお金が稼げるし、ひなとも一緒にいられる
ひな:

①晴れ女ビジネスをして、「晴れ女」としての役割を得る。
 →お金が稼げるし、自分にしかできない晴れ女役を勤めること自体にも満足している
②本当は15歳であるにも関わらず18歳と偽り、穂高の前では年上のお姉さんという役割を演じ る
 →これはきっと田舎から出てきた穂高のプレッシャーを軽減させたい等の善意からくるもの
須賀さん:

実の娘からみた実の父親という役割

 

 本作は以上のような役割を物語が進行するにつれて獲得していくが、この役割の獲得はすべて肯定的に描かれる。これだけみるとpixartとは異なり役割を得ることを美/良しと捉えている。
 が、作品の最後までみれば分かるが、結局はこの役割に囚われない生き方を登場人物は行う。晴れ女は最後人柱として消えるはずなのに消えないから東京は水浸しになってしまう。晴れ女失格である。

 穂高も晴れにするのが仕事だったのにひなさんにこの世に呼び戻してしまったために、ずっと雨が降る。晴れ女ビジネス考案者失格である。(須賀さんも娘と一緒になれるかも知れないから警察ごとは避けたいというって穂高を田舎に帰るよう促すくせに、結局警察をぶん殴りにいって逮捕される→父親失格。)


本作の主題はまさにここにある。役割の放棄によって世界が狂おうとも「大丈夫」であり世界がどうこうなるなんてことよりも、「君のことがすきなんだ」「君ともっといたいんだ」なんていう非常に純粋な愛の話、それが天気の子である。ちなみに天気の子は直訳すればchild of weather とはひなが女の子であることを考えればgirl of weather とかになるはず。ただ公式タイトルはweathering with youであり、このタイトルが今述べた天気の子の主題のメタファーになっている。


 ただ新海誠はひねくれもので、この愛の話をそのまま美しいものとしてのみ捉えて本作を作っていないのではないか(完全な私の偏見)。映画の美味しいところ(主題の愛の話)に少し自身で批判を加えている。
子供と大人の対比が本作では随所に見られる(須賀さんの「大人になれよ、少年」なんてまさにこれそのもの)。ラブホで「俺が働くから」とか16歳の少年が言ってしまう滑稽さ、2400円?しかしない指輪をベットで渡す可愛らしさ(みる人によってはこれはおままごとである)は以下にも子供っぽさを連想する。そんな子供が誰か好きになって「消えないでほしい、ずっとそばにいて欲しい」と思う話に、大人が映画館にきて感動する。そんな状況をみた新海誠は「何子供のおままごとみたいな恋愛みて感動してんねんwww」みたいなこと考えて作ってるかもしれない。

 

追記
 登場人物がいちいちエロい。深海誠の性癖爆発である。平成たぬき合戦ぽんぽこでも至る所に隠れて性的な描写が仕組まれていた。天気の子も同じである、むしろ天気の子のほうがぽんぽこより直接的に女性がエロい。ラブホに3人で泊まるシーン、とくにひなの風呂上りシーンを、穂高の目線および穂高の表情から、映画をみる観客に「青少年老若男女みるこの映画でなにか起きてしまうのではないか」と想像させる圧巻のでき。個人的には恋歌ってるところが一番好き。
 映画冒頭で出てくる野沢雅子演じる占い婆がいっていることがこの映画の答えである。Lalaland やうる星やつらビューティフルドリーマと同じように最初に映画の答えをいう仕掛けを採用している。
占い婆はこんなこともいっている「晴れ女はリーダーに向かない」。にもかかわらずひなは年齢まで偽って穂高らの前でリーダーになろうとする。晴れ女には向かないはずのリーダー役を努めていたから、最後晴れ女の役割から開放されて人間界にもどってこれたのかもしれない。