ミューツーの逆襲 EVOLUTION

記念すべき映画考察として初のブログ投稿では「ミューツーの逆襲 EVOLUTION」を考察していく。2019年8月時点でまだ公開中であり、私は劇場で鑑賞した。

あらすじは述べずここでは、考察と感想のみをしるす。ネタバレあり。

 

 初見の感想ではこれはポケモンをベースにした「ジュラシックパーク・ワールド」であると感じた。 冒頭でミューは天候等を操ると説明される。つまりそれはミューは自然の象徴であることを暗示している。そこから人間の手によって生み出されたミューツーは人間や人間に 飼われている、言い換えれば人工的なものに逆襲を仕掛けていく。これは人間が恐竜を蘇らせ、 恐竜に逆襲されるという「ジュラシックシリーズ」と構図と似ている。ジュラシックシリーズの主題は自然には人間は勝てないということ であり、DNA技術を暗に批判し、生命さえも作れるようになった人間の愚かさを描く。 本作も同じである。 ミュウの遺伝子から作られたポケモンミュウツーに人間は勝てない ( 実際オリジナルの御三家ポケモンミュウツーが作ったクローン御三家に負けている)。

 

が、ジュラシックシリーズとは結末が違う。 ジュラシックパーク1では恐竜に勝てない人間が完全にパークから 逃げる。 ジュラシックワールド1では遺伝子操作された恐竜(インドミナレックス)がオリジナルで あるティラノとモササウルスにやられるし、 人間もあの島から退却する。 ジュラシックシリーズは人間が自然に勝てないことと、 遺伝子操作されたものがオリジナルに負けるという構造になるが、 ミュウツーでは「クローンでも生きてるから」 といって人間側もミュウツー側も最終的には和解してお別れすると いう話である。

 

 一方これだけでは、ミュウツーが様々な場面で自問してきた「 私はだれか?」という答えになっておらず、 考察としては不十分な点があることは否めない。

 

 年上の友人曰く、ポケモンがブームになった直後「 ポケモンモンスターボールにいれて、かつそれを戦わせる」 ということが評論家から論評をよんだらしい。つまり、 ポケモンは人間の奴隷として扱われているのではないかという、 ポケモンとの友情ばかり焦点をあてた作品に見慣れ続けた私にとっ ては考えられない考察が当時はあった。

 

 そういった考察へのアンサーとして回答したのがポケモン1作目の 映画である「旧版ミュウツーの逆襲」である。ミューツーがとう「 私はなにか?」という質問は「ポケモンとは何か?」 を問うている(下記の補足参照)。ミュウツー登場のシーンで「人間がいたらこの星が 破壊されてしまう、ポケモンが人間に従わされている」 等々評論家が言ってきたポケモンへの批判をミューツーにいわせ、 そして物語全体(特にポケモンが涙して、 化石サトシを救うシーン)でそれを否定している。 ポケモン一作目の映画である本作ではポケモンとは何かを問う。 そんな映画になっている。

 

補足

 ミューのクローンであるミューツーが自身の存在をとうことが、 ポケモンをとうことになると上記したが、 その点について補足する。

 そもそもポケモンは現実に実在する動物や植物からその姿形と名前 がモチーフとなっている(例:火のトカゲ=ヒトカゲ)。 そう考えると、 そもそもポケモン自体が現実世界の動物のクローンでありオリジナ ルではない存在なのである。 よってミューというオリジナルから生まれた「ミューツー」と、 現実世界にある動植物のオリジナルから生まれた「ポケモン」 はリンクする存在である。よってミュツーの「私はだれだ」 という問は「ポケモンとは何か」 をとうことと同義になるのである。

 

子供むけだと思われるポケモン映画「ミューツーの逆襲」。ぜひ童心を思い出して鑑賞されてはいかがだろうか